自己責任という言葉がここ10年くらいよく聞かれるようになった。

正確にはバブル崩壊の時から徐々に言われてきたようであるが、格差が言われるようになったと同時に広まったように思える。

自己責任は自由を標榜する、自由主義においては、必ずついてまわるものである。

自由であるから、行動するのは自己責任であるというのは本当にそうなのか。
むしろ、自由であるが故に、ちょっとした隙が存在し、全く違う世界がそこを起点として存在しているのではないだろうか。

社会は複雑なシステムで成り立っていると、社会環境がその人の人生を左右することはいくらでもあり得るのである。

しかし、自己責任はこれをかき消し、あたかも自分で選択したのだから、責任を負うべきという正しそうな理論を振りかざす。

情報があふれる社会で、本質的なものを見つけるのは大変難しいことであると思う。
だからこそ、個人の中に内在するものに原因を求めるのではなく、自分と社会通念の外側に答えを求めることが大切なのではないか。

そして、その外側にある自分の視点が、先を照らす光になり得るのではないか。

そう思ってやまない。
iphoneに関しては前回書いたと思うので、今回は最近賑わっているandroidについてです。

冬モデルでようやく国内メーカーもandroidに本腰を入れて来たという印象ですが、ラインナップを見た瞬間。
やっぱり国産だな、という一種の安心感を得た。

や、皮肉ってますが、、悪い意味での安心感です。

問題点を列挙すると

1、ワンセグやおサイフケータイなど、ガラケーの機能をそのまま移植している。

2、そのせいでOSのverupが遅れる。もしくは出来ない。

3、ガラケーから乗り換える意味が薄れる。

の4点。
まず1ですが、さかんに「スマフォに手を出しづらいと思っているのはワンセグなどのケータイで当たり前にある機能が無いからである」と言われているが、これ、本当かどうか?感じます。

スマフォってPCよりのケータイなのでワンセグを入れると当然重くなるし、本来の機能を阻害する可能性があるんですよね。PCでいろいろメーカー独自の機能つけているとソフトいっぱいで消すと使えなくなるから、仕方なく重いままで使うとか。
本末転倒だなと感じるし、それの代わりに新しいイノベーションが生み出すことは必要だと感じました。

それに関連して2ですが、今回発表された端末はver2.1が殆どです。海外産は2.2が標準なのにこの差はなんだと言われるとガラケー機能のせいなんですよね。

スマフォのメリット阻害してないか。それ。

そして3はガラケー機能を盛り込むことでケータイから乗り換える意味ってあるの?という疑問点。

方向性としてはスマフォにしか出来ないイノベーションを提供する事に意味があるのではないかと思います。
だってauとか「既存の機能が使える!」とか宣伝しているけど、じゃあガラケーでいいやん。という話。

なぜiphoneが売れているかもう一度考えてみてはどうかなーって思いますよ。
今の日本には古くなったシステムがいっぱいある。
その一つである放送法32条について考えてみた。


NHKが見られる環境にある者はNHKに受信料を払わないといけないというのは放送法32条で決まっている事です。
しかし罰則規定が無いため、契約しなければいいだけというのが抜け道です。

そもそも、こういう契約が必要な事はテレビなど設備を購入するときに誰かから説明がないといけないものだと思うのだが、それがないので契約を強制させるというのはグレーゾーンだと思うけど。

特におかしいと思うのが、ワンセグにも通常料金を課金させること。
画質も音質もフルセグと全く違うサービスなのに同じ料金というのは民間だったら絶対無くなっている。半官半民だから出来る事。

今、インターネット課金も考えているらしく、そうなったらどういう風に課金するのだろ。やっぱりインターネットに接続されているから課金?そうだったら企業にとっても甚大なコストになると思うけど。どうだろ。



以上の問題点を踏まえて、代替案を考えてみた。

1、サイマル放送にする
料金を払った者だけが見られるようにすればよい。単純に見たい人は見ればいいし、見たくない人は見なければよい。
公共放送だから全員で負担すべきという考えがあるが、それはテレビを全世帯で所有していればの話。最近はテレビを持っていない一人暮らしの若者が多い。
また、テレビを常につけていてもNHKを見ているという人は年寄りしかいないという。

なので、

2、年寄り向けの放送にシフトする
もういまでもそうなっているけど、年寄り向けにしたらコストを回収できるのではないかと思う。
料金は高くなるけど、その代わりに、あなたたちの好きな番組をずっと流しますよ。みたいな。
見たくない番組が半分で2000円より、全部見たい番組で3000円の方がいいという人は多いはず。

という形がベストだと思う。

若者がテレビ自体見なくなっているので、今のままのシステムでは破綻(というか税金投入)することは確実。
未来へのシフトチェンジとして以上の案はいかが。
今日は日経新聞webより、おもしろい記事を見かけた。


「3Dパソコンを9万円台で、エイサー、日本勢の半額」
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819696E3EBE2EA888DE3EBE3E3E0E2E3E28698E3E2E2E2?n_cid=DSGGL001


3Dがこの価格!凄い!とかじゃなくて、あーやっぱり日本のメーカーは日本のメーカーなんだな。というのが感想でした。

個人的に3Dは別にどうでもよい機能なので、物欲をそそられたわけではないのですが、台湾メーカーの3Dを市場に普及させてマーケットシェアを握る勢いが凄い。
今、日本のメーカーに欠けているのはこういう視点ではないかと思う。

3Dという付加価値の高い機能はまず上位モデルから導入していって(コストがかかるので)コストダウンと共に下位モデルに普及させていくというのが基本的な戦略だと思います。

しかし、エイサーが取ったのはCPUなど「基本的な」スペックを下位に合わせることで、「とりあえず3D見られますよ」というラインを狙った訳である。
価格のブレイクスルーという観点で、単に低価格化競争ではなく、普及段階でのマーケットリーダーを得る事を目的とした戦略である。

まぁ、今時のPCなら低価格でも一通りの作業はこなしてくれるわけで、高スペック+3Dなんていう高コストなものじゃ時間かかりますよね。
非常にミニマムで合理的な判断な訳です。

こういう合理的で迅速な判断が出来ない、意志決定が遅いのは日本企業の大きな欠点だと思います。
低価格な戦略を取る事が出来たにも関わらず、出来なかった。これは痛い。

特に変化が早い今の世界で遅い事は損害が大きい。そういう視点でミニマライズすべきだと思いますね。
人間は不完全な生物であることは誰もが認めるところだと思う。

理性的で感情的。合理的で非合理的。

相反する要素が同時に内在する生物である。

しかし、
「不完全」な生き物なら、「完全」な生物とは何なのか。
完全故の不完全という評価なら、完全な生物は全て人間の上位に立つべき存在なのだろうか。

ソサエティ。社会はどんな生物にも当てはまることだが、人間社会が持つ特殊性はなぜ人間にしか発現しないのだろうか。

人生の先を見渡したり、自分のの限界を超える事を想像出来るのはなぜか。社会の変容はなぜうまれるのか。

分からないことが多い。だが、それ故に人間学は深く、広く。その口を開いている。

物理学的に言うと、人間の両面が内在する不安定さは、素粒子が作る世界の法則があるからだが、それはあくまでも現実的な事に過ぎない。

人間が心を奮わせるのは何か違うエートスみたいなものが存在するからだと考えるのは物理的な事だけではないだろう。と思う。