最近、人の死について考えさせられることが多い。


元来病死系の小説や映画、メディアやディベート等で「人の死」というふわっとした客体に相対することはあったが、自分事で深く考えたことはそこまでなかった。


だが後輩2人が自殺した先月から、思考を止めることが出来ない。


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1人目は、知り合いではあったものの、そこまで近い関係性ではなく、訃報を聞いた時も現実味がなくて何が起きたのかよく分からなかった。

実感がないと言うか、「あの子、亡くなったんだ。」としか頭に浮かばなくてリアリティを感じられなかった。


その2週間後に、自分の親友が亡くなったという連絡を御家族から頂いた。

この時も1人目と同じで、理解が出来なかった。つい先日まで会っていたので、今自分の眼前で何が起きているのかを整理することが出来ず、脳がそれを拒んでいたように感じられた。


だが現実はそれを許さなかった。

葬儀の会場の連絡を受けたり、知人にその件を伝えたり、まさか使うとは思わず用意などしていなかった喪服を買っているうちに、今まで脳が理解することを拒否していた親友の「死」というものが近づいてくるように感じられて怖かった。葬儀に参列している時も当然悲しくもあったし、信じられないくらい泣いたけれど、静かに眠る彼の顔を見て


「本当にもうここにはいないんだな」


という悲しみとも、絶望や恐怖とも違う不思議な感覚になった。

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自殺とは、当然「自らの意思で自らを殺す」ことを意味するので本人たちの自由意志によって遂行される。

そこにおいて、辛い現実があるからそこから脱却するための効率的手段という彼らの自由意志を尊重するのであれば、ある意味第三者がそれを否定的に捉えたり、もしかしたら悲しく思うことさえ筋違いなのかもしれない。


それでも、「やっぱり生きていて欲しかった」とか「自分ならどうにかしてあげられたのではないか」と考えてしまうのが人という生き物で、これがきつい。

かく言う自分自身も、ふと夢や日常に出てくる彼の残像に、「君は何を想いながら逝ったんだろう」「あの時何か出来たかな」と心の中で話しかけてしまうわけだが、多分どうしても無理だったのだと思う。


だからこそ、自らの意思で逝った彼らの爪痕を自責の材料にするのではなく、「彼らと共有した楽しい時間の記憶」として、生涯自分の中で保管しておくことが、残された我々が出来る彼らへのせめてもの手向けなのかと今は思う。


「逝ってしまった彼らの分も頑張って生きる」は生前彼らが頑張っていなかったように思えてしまうので、「頑張って頑張って人生を全うした君たちがこの世に残してくれたものを継いで、僕たちも頑張って生きるよ」と残したい。


<最近よく聴く曲: PEOPLE1/常夜燈>

天国に学校はあるかしら

ふらつく足で見つけたのは

古い映画の悲しい結末 oh oh oh

皆は君の 君は神様のせいにする ah

その神様の歌声は

今じゃよくあるコンビニの放送 oh oh oh

みんな優しさを受容して

そっと心に釘を打つの

期待はずれの夜を抜けて oh

この世界には 未来がキラキラと

みえる人もいるというの

それならば 食えぬものなど置いていかなくちゃ

例えばこんな胸の常夜燈も


才能って一体何だろうね

ブランコを漕ぐ ah みたいな日々が

何気なく君に色を差す oh oh oh

いつか大人になるのならば

忘れたことも思い出そう

そんな努力もしてみよう um um um

そんな些細な妄想で

胸の爆弾は軽くなるの

先延ばしの朝を迎えて oh

この世界では 人をだましたり

モノを盗んではいけないというの

それならば 欲しいものなど君にあげるよ

例えばこんな胸の常夜燈も


臆病な自尊心に 匿われて目覚めたのは

あの頃の僕らだ

いつか大人になるのならば

欲しいものなど君にあげるよ

例えばこんな胸の常夜燈も