今日の授業は、苦痛って意味ではないストレスを多く感じました。
目を閉じたまま歩いてペアを組んで背中を合わせて呼吸を合わせたり、目を1分間見つめ合ったり、名前を呼び合ったり、なんだかよく動き、五感そして第六感をも使ったような気がします。
しかも、毎回ペアを変えるから(5人くらい?)、ハイ次、ハイ次で・・・ちょっと大変。
ほとんど初めて触れ合う人とかもいて、緊張したけど、自分に対してこれだけの人にフィードバックをもらえるっていうのはやっぱり貴重な体験だなと思います。あと、瞳ってキレイだなぁって思いました。
なんだか自分に対してのフィードバックが似ているような気がして、“自分”という人間に対してのフィードバックなら極端に変わるのもおかしいし、似ていて当たり前かとも思うけど、自分としてはそうかなぁとか思うことだったり、毎回実習が変わるけど、やっぱり自分が人に与える影響は変わらないのかなぁなんて考えると、ちょっと意外でした。
緊張したけど、不思議で、楽しい(!?)授業でした。
こういう授業も、体験に入ると思うけど、うちにはいくつか体験型の授業があります。
特に合宿とかでは、感じることが多く、本当に行って良かったって思ってます。
でも、そんな時に必ず思うことがあって。
それは、風化することです。
(今、この気持ちを忘れたくない。)とか(忘れることが逃げなのではないか。)と思うから、風化することに対してすごく不安な気持ちがありました。
今となっては風化って言葉はなんか違う気もします。
でも、しっくりくる言葉が見つからないって言うのが正直なとこです。
知り合いの方が亡くなって昨日で1ヶ月経ちました。
未だに信じられないと思ったりもします。
突然でした。うちの親がお見舞いに行って5日後。本当に突然でした。
(何でこの人が。)っていう表現はよくよく考えればおかしいけど、でも、その方が病気になったって聞いた時、正直、そう思いました。
両親の友人で、しかも付き合いも長いので、どういう人かとかあまり知らずに今まできました。お通夜、お葬式でその方の私の知らない面をいくつも知り、私にはこんな表現しか出来ないけど・・・本当に素晴らしい人だって思いました。
うちの親がお見舞いに行った時、私のことも話してくれたそうです。優しい子だと言ってくれていたみたいです。たくさん話した記憶とかはあまり無かったのですごく意外でした。その時既に、話すことがもうしんどくなってきていたようです。
亡くなったと父から聞いた時は、まだ学校で、頭が真っ白になったし、電車で向かう間、そして今もですが、後悔がありました。私、何にも出来なかったなと。
私が生まれた時に唯一生きていた祖母が亡くなった時に抱いた気持ちと似た気持ちをまた感じながらも、それでも三重に戻ってきていて良かったなぁともその時たぶん初めて思いました。
ボランティアを長い間行っている方だったので、その話を聞きたかったし、いつか参加させてもらいたいと思っていました。お見舞いとか、その方の参加するイベントも、自分に精一杯で少ししか足を運ぶことが出来なくて。そのことが悔やまれます。
お葬式では、その方の吹いたハーモニカ演奏が流れました。父が「ハーモニカは不思議やなぁ。楽しい時に聴くとホンマ楽しい気持ちになるし、こんな時に聴くと悲しくて涙でてくるなぁ。」と言いましたが、本当にその通りだと思いました。
1ヶ月経ったのでブログにしました。1ヶ月前は、ここまで書くことにすごく抵抗があって、でもその時の気持ちを忘れないでいたくてあんな文章になりました。
忘れるって何なんでしょうね。
学校の授業と今の話を一緒に考えるつもりはないですが、それでも、その方が亡くなり、その時の気持ちが薄れてしまうのではないかということに不安を感じ始めた時、授業のことを思い出しました。
授業では、“忘れることが逃げだとしたら、忘れないまま、そのことに向き合いながら日々を過ごしていく”という考えに至ったことがあるけれど、今はそれだけじゃないよなぁなんて思います。
その時の気持ちをそのまま持ち続けていくことは難しい。しかも、持ち続けていく方が良いというわけでもない。
でも、気持ちが薄れていくことに対して不安とか抵抗を感じています。たぶんそうだと思います。
答えがあるわけでもないし、自分の考えをまとめたところで何かあるわけでもないし、しかもまとまらない気がする。だからずっとこれには向き合っている気がします。
今読んでいる本があって。
そんな自分の気持ちに寄り添ってくれる本だなぁと思います。
ただ寄り添ってくれるだけでなく、小説だからこういう考えはあんまりしてはいけないかもしれませんが、本が数年前のものだから、自分より前に似たようなことで悩み、考えていた人がいるような、そんな感覚にも少しなりました。
でも、それで自分の不安とかが軽減されたとしたら、今考えていることは結局、自己満足に過ぎなかったんだなぁなんて思います。そう思うと、何だかやるせない気持ちにもなります。
本の中でじ~んときたところがあって、なんでそこなのかって考えました。今まで日常を送っていた家族の中の一人が病気になってしまって、そこで初めて病気、またその先の人生を考え始める。その様子は、病気と向き合っていくというより、向き合っていかなければならないという印象で、頑張っているのに、更に頑張らなきゃいけないというか、何だか表現出来ないけど、そういう家族の様子は胸に迫るものがありました。向き合わなければいけないというのは、誰もが体験することかもしれませんが。
良い人ばかり逝ってしまう、という言葉を聞きますが、そうかもなぁなんて思います。良い人って表現は抽象的ですが。良い人というか、そんな人達が死というものを教えてくれているのだとすれば、そう考えるとより深く、教えについて向き合えるような気がしてきます。
でも、良い人のまわりには良い人がいます。だからこそ、何でという気持ちにもなります。
今年友達の大切な人が亡くなったという話を聞いた時、そう思いました。そして知り合いの方が病気になったと聞いた時もやはりそう思いました。
なんでって思ったり、悲しいとか寂しいとか思う気持ちが薄れてしまうことに対して今、そしてこれからも、きっとどうすることも出来ないと思います。
今だってもう過去になってしまうし。今が過去になっていくように、今の気持ちだっていつかは薄れてしまうかもしれないことのように、何も出来ないわけではないかもしれないけれど、でもだからといってやっぱりどうすることも出来ないような気がします。
合理化させて考えれば気持ちは一瞬楽になるかもしれないけど、納得出来ないはずだし。
答えは出ないし、出すつもりもないけど、でもそんなことを思っている時点で答えを探していたのかもしれない自分の矛盾に気がつきました。
でも、こうやってブログを書いていく中で一つ思ったことがあります。どこかで折り合いをつけるんじゃなくて、自分で線を引いてしまうのだけはやめようってそう思いました。また、変わるかもしれませんが。
そう思うと、こうやって文章にしたことは自分にとって少しは意味があったのかなと。どうでしょう。
そして今回はいつもより話がすごいとんでしまってますね。すいません。
まとまってないまま言葉にしてしまったので、こんな風になってしまいました。何か言葉にしたい気持ちはあったので。まぁでもこれが今の私なんでしょうね。
薄れるって書いたけど、やっぱり全く消えることはないんだよなぁ。経験したものは、残っているものだと思うし。
でも、それでも・・・と考えは尽きません。
まとまってない分次から次へとまたいろいろ考えが出てきます。
またすぐにいろいろな考えが出てくると思います。
向き合っているとそれだけ多くそのことについて考えてしまうものだと思います。
なので、この辺にしておきます。
ちょっと変ですが、この辺で。
一ヶ月経ってのブログでした。






