義兄が亡くなって3週間が経った。



義兄が亡くなってから不思議な現象が私の周り?目の前で時々起こっている。





①告別式の日の夜


自宅マンション敷地内の駐車場の暗がりでうごめくものが。一瞬ホコリ?かと思ったけど生きてる風だし。よく見たら大きなアシダカグモだった。


春にアシダカグモを見ることはこの辺ではあまりないし、タイミングが少しでもズレていたら見かけなかったわけで。


すぐさま他の生物の姿を借りて現れた義兄かなと勘付いた。


「お義兄さん、今までありがとうございました」


と、そのクモに小さく頭を下げ手を合わせた。





②接客中に


とあるオバサンに投薬(接客)した時の話。


体調を伺う声かけをした途端、

物凄い勢いで身の上の不幸話

病院への強い憤りと不満

ずっと喋り続けた。


Drの処方ミスで薬害起こしてしまったようだが、その薬から「しまった、メンヘラだ!」と分かった。


流れを一旦切ろうと、

私に用事のある他の患者や業者への対応で席を外したが、

私が戻ってきたら再び勢いよく一方的に喋り出した。


途中からしばらくの間、

ハエがそのオバサンの顔周りを飛び回っていた。


その動き方がまるで、

困っている私を助けようと、オバサンの周りを飛び回って煙に巻いてやろうとしているかのような。


そこで私も、

「もしかして義兄さん?私を助けようとしてる?」

と思った。


その後、患者が数名入店してきたので、それを理由に(「ちょっと混み合ってきましたので…」)何とか話を切ることができた。





③親友との外食にて


昨夜、親友と洋食屋へ。


お互いの近況報告する中で、義兄の話に。


その時に親友の付近で飛ぶハエが。


「ちょうど義兄さんの話をしているし、ひょっとしてまた来てくれたのかな?」


と思いました。





まぁ、



こじつけている部分もあったり、

そうだったらいいなという部分もあったり。



死んだら「無」になるのは分かってる。



でも、そんな現象が本当に存在するのかもしれないし。

(人間が解明している知識が全てではないと思っている)





あれから3週間経ち、



週ごとに辛さや悔しさや悲しみは和らいでいるけれど、



それでもやっぱり、



「なんで義兄さんがこんなことに…」

「第二の人生、謳歌して欲しかったよ…」



という気持ちはある。



「先日の地震の時に義兄がいたら長姉も心細くなかったんじゃないかな…」



とかね。



今、私がしていることは、



休みの日(特にお酒を少し飲む前に)に、

義兄家の方角に手を合わせること。



あとは、ふと思い出した時にも、

義兄家の方角に手を合わせたり、

心の中で義兄に話しかけたり。





祖父母の別れの時よりも圧倒的にショックで悲しくて、悔しくて。



若過ぎるわ…今の時代で62歳はね…



だから、



ショホウセンの患者の年齢を見る度に、



「この人、83歳かぁ。義兄さんよりも20年長く生きてるんだなぁ…」

「この人、91歳かぁ。その命のうち10年だけでも義兄に分けてあげてよ…」



これはほぼ毎日、そう思ってしまう。

この思考回路は癖になってしまった。





でも、



こういうのは、



長姉たち、そして義兄は望んでいないだろう。



残された我々は前を向いて生きていかなきゃいけない。時に立ち止まりながらも。





みんなが落ち着いたら、



義兄のことを皆で語り、偲びたい。



愛用品、思い出の品以外のものは処分するだろう。

(去年6月に購入したレクサスも身内に乗り手がいない為年内に売るそう。その前に遺族4人でレクサスに乗ってドライブするんだと)



でも、



義兄といた時間

思い出や恩

この世に確かにいたということを…



忘れないように。



義兄の姿形はもうないけれど、

いずれ義兄の年齢を自分たちは超えるのだろうけど、



心のどこかに、その存在を…



それをしなくなったら本当に「無」になってしまいそうで。



だからこそ、



浸る、とは違うけど、



時々思い出して手を合わせている。