リベラリスト宣言

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3月1日に高校を卒業しました。高校卒業の時に思ったことを忘れないように、書き残しておきます。

私の高校は自主自律を校風とした、ある程度自由が認められた高校でした。いざ卒業を迎えてみると普段感じることの出来なかった自主自立という言葉の重みを感じたので徒然と書き残してみます。

自由って何だろう。よく自由とは何でもしていい自由ではないということを聞きます。でもそれは間違えであると思う。

他人によってしてはいけないことが定められていたら自由ではないと思う。あくまでしてはいけないことは個人の良心が決めるだけであるものであると思う。それがグロチウスの唱えた自然法であると考える。

じゃぁ自由なんだから好きかってやっていいか。もちろん、そう。ただ自由にやったことに対して起きたことに対して完全にすべてにおいて責任を負わなければならないのが自由だと思う。もちろん何もしないのも自由。

私はかなりのことにおいて自由だ。校則に縛られることもない。大学の授業も自由な裁量が認められている。だから私は自戒しなければならない。自由ということは何もしなくてもいい。でも何もしなかったことからくる結果に関して私は完全にすべてにおいて責任を負わなければならないのだから。

そう考えると私の心には大きな不安と大きな希望がある。自らを律せず何もしない自由を行使すればそれによって起こるであろう将来はもう18の私には十分に予測できる。ただ私にはありとあらゆる良いことを出来る自由も時間もある。

このように考えてみると自主自律という言葉が、高校生時代には感じられなかったこの言葉の重みと輝きが少し理解できた気がした。

あなたは木の生長の変化に気づくであろうか?

幼い頃に苗木だった木はあなたが成人するぐらいになるとあなたよりずっと高くなっている。

木は確実に日々変化している。

しかし我々はそれを静物であるかのように認知する。

歴史や社会の変化もそうであろう。

ふと振り返ると自由で問題もあったが問題をいえる社会だったのが、

「問題はない。首脳部の統治は実にすばらしい。」

としかいえない社会になっていることはままある。

大正デモクラシーから護憲三派内閣成立等戦前の民主主義の全盛期から

気がつくと太平洋戦争の開戦、言論統制、思想弾圧。

それだから歴史は繰り返すし、戦争は無くならないのだと思う。

しかし完全に歴史が繰り返していたわけではない。もし歴史が完全な繰り返しであったなら

市民の人権、思想的自由、経済的自由、言論の自由が保証されている社会など

存在し得ないのだから。

それは何故か。ひとえに各国の犯した罪を歴史という形で

つむぎ、学んできたからだろう。

小さな変化を見つける目を養うのは、

多分に教育者の思想的余地のある危険な教科ともいえるが、

やはり歴史なのである。

あなたは木の生長を感じ取れる目をお持ちですか?

今日この頃阿部内閣の大臣の不用意な発言が目立つ。

その主格は核武装論議であろう。

北朝鮮が核武装するというのを聞くと国際面して核武装はとんでもないというのに

いざ自国の事ともなるとこうも盲目になるのかと感心してしまう。

人にされて嫌なことは人にしない! 習いませんでした?

それとも日本の核はきれいな核なんでしょうかね?

また北朝鮮の核武装に対してあれは張り子の虎さという意見をよく聞く。

そこに関しては全く同意である。核抑止力論も同じ論理だろう。

たとえ保持しようとも一発でもどこかに撃ち込もうものなら

一週間以内に北朝鮮は国際社会からフルボッコであろう。

日本はどうか? 

きっと同じであろう。

たとえ保持したところでどこかの厳重な倉庫に眠ったまま

活用されることはないのだ。

核抑止力論によった軍拡が米ソ両国に多額の財政負担を追わせたのは周知の事実だ。

倉庫の奥で眠ってる煮ても焼いても食えない様なものに

巨額の国家予算を投ずるのは愚の極みだろう。

兵器に投資するのではなく人に投資すべきだ。

核爆弾製作のための研究費等を小中学校の教育拡充のために用いた方が

日本としての国威国力はよっぽど向上する。

国際的にも評価は高いだろう。

今日の雑感でした。

最近テレビを片手間に流してるとよく日本食がすごいだの日本のアニソンが世界で人気だのとのたまっている。

何とも気持ち悪い。

日本はどう頑張ったってアジア人に変わりなく、黄色人種であることは宿命なのだ。

たとえばフランス製の香水と中国語が書かれた香水が同じ価格で売られてたらどちらを買うであろう。

つまりはそういうことなのだ。

欧米人からすれば日本の認識は中国とさして変わらない。

同じアジア人の中でもいまいち中国製品というと抵抗があるのに、

人種を越えて日本に特別な思い入れを欧米人が持つと思うか?

つまりはそういうことなのだ。

どうも最近の日本礼賛には辟易せざるを得ない。

ほめたって何もならないのだ。せいぜいナショナリズムをあおるだけ。

昔中国人が愛国無罪と逝って日本国旗を燃やしたりしたとき良い気持ちがしたか?

あれがナショナリズムである。ナショナリズムは互いの目を盲目にする。

以上今日の雑感でした。

今小中高でいじめ問題が広がっている。否広がっているのではないのかもしれない、広がっているのが認知されつつあるといった方が正しいのかもしれない。私はもうすぐ大学生になる高校3年である。顔は良い方じゃない、運動も・・・。まぁ勉強は好きではないが人並み程度に何とかなった。いじめの格好の餌食となりうるような私だが幸いいじめにあったことはない。

だけどそれは私がとても幸運で、クラスメイトがいい人たちだっただけだからであるに違いない。現実は多くの人がいじめられ、いじめ、見て見ぬふりをする。のだと思う。

だけど私は今の解決方法には疑問を抱く。政府はいじめが起きたことを戦後日本国憲法によって確立された個人の権利を重んずる点にあるとして、教育基本法の改正をした。だけどそれは間違えだと思う。きっと昔からいじめという問題はあって、人という弱い生き物の構造は変わってないんだと思う。

昔江戸時代にはえたひにんという身分階級があった。それは農民より下に位置づけられて農民は日々の不満をその人たちを蔑視したり軽蔑することで解消していた。少なくともそれを目的につくられた。また日清戦争以後中国や朝鮮の人はあざけりの対象となった。そしていじめだってマスコミが騒ぎ立てる前からずっと存在していた。

それを昔見たく公を重んずる心を育てれば解決するんだと考えるのは間違えである。なぜなら昔にもいじめがあって、異民族への蔑視があって、男尊女卑がまかり通っていて、決して昔に理想的な人間像が構築されていたとはいえないからである。

でも、何とか問題を解決しようとすること自体は悪いことではない。問題は解決への手法が賢明でない点にある。私は高校時代男子校で1クラスが46名もいるような高校にいた。1クラスの人数が多いと担任の目が行き届かない、とよく言われるが、担任の目なんてクラスを5名程度にまでしない限り行き届きようがないのだ。これは昔何かで読んだことなのだが、1クラスの人数が多いと一人一人の個性によってグループが出来、たとえあるグループではうまく適応できなくとも、他のグループでは順応できる、だから多人数の方がよいという主張があった。まさにその通りだと思う。私の高校生活がそれを立証している。