「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」1コリント 1:11

 これは衝撃の一節である。人間の知恵で神を知ることは出来ず、「宣教という愚かな手段」によってでしか人間に知られない。
 賢い手段では得られないのが信仰であるというのは、私にとっては恐ろしかった。
 私はクリスチャンである。それも30代半ばを過ぎてから洗礼を受けたクリスチャンである。それ以前は、仏教徒、浄土真宗を自認していた。にもかかわらず、人生のいろんなことを契機にクリスチャンになった。
 仏教を否定してクリスチャンになったと人は見るかもしれないが、全否定していることはない。むしろ、補完というべきか。クリスチャンであるので、キリスト教が主であるが。
事業仕分けの結果に対して、オリンピックのメダリストらが異議を申し立てているという。前にも書いたように確かに事業仕分けは乱暴だから、きられた側からすればいろいろ文句を言いたくなるのは当然であろう。しかし、今の不況の時代にあの主張というのはいかがなものか、と思う。どうであろうか。