キャンプ解散後、
一行は二台の車に分乗し、
山梨から千葉袖ヶ浦の事務局に向かって帰途に着いた。

その路程の要所々々、
和賀先生の奥さまが、
気が付けは私の横に立っておられて(ドキッ…)、
毎回のように話しかけてくださった。

なぜ???

私があまりにしっかりしてないからかな?

布教活動されてるのかな?
私がキリスト教にふれあう機会がないから、
ここぞとばかりに集中講義をされてるとか!?

多少疑問はわいたが、
でもそんなことはどうでもよかった。

奥様は、私に大切なことを伝えようされているのに違いない!
しかもそれは私の心の気付きを促してくれるものだ。

私はそう直感して、そこから何かを汲み取り、考え、
心にしっかり残しておくことだけを考えていた。

それにしても、なぜ奥様は私の心に響く適切なアドバイスができるんだろう?

そのことが不思議だった。
もしかしたら、霊感のような何らかのインスピレーションを持って話されているのかもしれないとさえ思えた。

この奥様の素晴らしさの秘訣は、
彼女が誰よりも信仰深い方だから…なのだろうか。

しかし、記憶を辿ると、
30年前、そんな奥様から、私にとってどうしても受け入れられない、
印象深い言葉を聞いたのを覚えている。

「キリスト教信仰上、みんなで教会に集うことはとても大切なことなんですよ。」
奥様が投げ掛けられたこの何気無い言葉に、
当時、マインドコントロールが解けたばかりの私は、拒否反応を起こしていた。
なるほど、牧師さんのお話しを多くの人に広げることができるし、
説教を聞きたい人や布教活動にはいいかもしれない。

だからって全肯定していいものだろうか?

人の価値判断は思った以上に頼りない。
その殆どが環境下での刷り込みでできている!

人が多く集う信仰は良くて、一人での信仰はあまり良くないなんて、
本末転倒じゃないの?

結果的に心の安定につながるとしても、
集団心理で価値判断を鈍らせ価値観をコントロールすることを大切と言っていいものなのだろうか?
ある集団が長所が沢山で一番素晴らしく見えても。

集団で価値観を共有して行動していると、その中で正しいとされることが真実となる代わりに、別の真偽を見つめる心の目を失っていくのではないか?

正直どこかで、偽物に真理の皮を被せて渡されていてもわからないのではないか。そんな不安が付きまとう。

トラウマのない人なら、集団とともに行動を共にし、心の勉強をするのもひとつの方法だろう。

でも少なくとも私は、もっと別の方法で、自分の内面を見つめながら自分と会話するように、具体的にこういうストレスにはこういう考え方、物事をこう捉えると楽になる。
日々少しずつでも自分の中の気付きを積み重ね、外の情報とも照らし合わせて、自分に取り組んでいきたい。

私も含めて人は、洗脳や批判や、情報の偏ったピックアップ等で、あるいは何かを真面目に考え過ぎても、
どうしても客観性と柔軟性を失って、
考えや法則が人を駆逐する方向へ進んでしまう。

宗教ばかりでなく、国民の常識、社会の常識、世界中の無数の決まりと正義。私にはそれが洗脳もどきのように思えてならない。


本当に正しいことが分からない自分だから、キリスト教や仏教や心理学についても、どれが良いものか判断できない。
いろいろ広く参考にはさせてもらって、自分の心の成長については個人的に自分の頭で考え自分で選択していきたかった。

しかし、時を経て、
今、再びその集まることの意味を考えてみると。少し違うものが見えてきた。
二日目の午後、
今度は頭と体を動かしてレクレーションだ。

天真爛漫な子供達と、結構いい年!?の大人達が、恥ずかしながら、歳を忘れてのガチ対決。

簡単な、だけど急げば急ぐほどウッカリ間違ってしまう指差しゲームで、生き残りをかけて競いあった。

よっしゃ!カンタンじゃないか!

しかし、いざゲームが始まると、私は身体中がカチコチになって不器用度MAX!
ずっと一人の人を指差し続けることしかできなかった。結果、その人が脱落すると、あっけなく共倒れ。恥イー!

それでも、脱落者は増える一方だったから、遠慮なく笑えた。ハハハハあせる

頭のやらかい子供達は大抵強かった。
だから、大人ニモカカワラズ、間違えずに次々やれてる人がいると、羨望の眼差しが注がれる。

あの年であそこまでやれるかぁ…?凄い!

最後は、各グループチャンピオン大会、決勝戦。
大人と子供の一騎討ちラリーは圧巻だった。

あの人やばい!子供より頭が若い!!何者?。

皆の視線を一人占めして、にわかヒーローが誕生した。ブラボー!!グー
(パラパラ拍手ニコニコパーパー

沢山笑って楽しんだその後は、
おだやかな西湖のほとりをぶらぶら。ポツネン、ぶらぶら…。
何気にゆったりと、のどかなひとときを過ごし、自然の癒しの力でリフレッシュ三昧。

再び室内に戻ると、早くも会は大詰め。

最後に、和賀先生や、ご尽力くださった皆さんの終わりの挨拶、お言葉を頂いて、
盛りだくさんな二日間はあっという間に終わってしまった。

それでも、今回、その中で個人的に得たものは予想以上に大きかった。

当初、ずいぶん後ろ向きな緊張感をもて余した私だったが、
5〇才にしてはあまりに情けない自分に幻滅、

その失敗を埋めるべく変な見栄を張ることとなった。
つまり、本来、口下手で消極的な私が、フレンドリーで好人物であるかのように装っていた。
つたないながらもポツポツと会話する社交性のある自分を頑張って演じたのだ。

お陰で、一人、また一人。少しずつ話した人数が増え、終わるまでには大部分の参加者と話すことができた。

すると、いつの間にか、それまでと違う不思議な感覚に気付かされた。

集まりに加わった当初、そこは私にとって敵意に満ちた空間だった。
ところが、その同じ場所が、今や安心と充実感の場へと変化していた。

不器用な私ができることは単純な会話だけだったのだが、それでも、周りの環境(自分の頭の中で作り出す環境)をアウェイからホームに変えてしまうコミュニケーションの底力に驚いた。

社交家ならば知る人ぞ知る常識なのかもしれないが、元々、ひどい言語障害で対人恐怖症の私は、集団の中では大概孤立していて、それを知るすべもなかった。

なんだ、こんな簡単なことに気付かなかったのか。
まるで真下の土の中に埋められている宝を探し当てた気分だ。

いわいる恐怖症克服手段としてのエクスポージャーという考え方は知っていたのだが、
今まで考えていたそれとは、動機が少し違って、今回は、私の対人恐怖症の歴史を揺るがす、実践的に生かせる、大きな収穫を得ることができた。

これからは、失敗する可能も認めた上で、口べたのまま積極的に話しかけて、自分の頭が固くならないように気を付けよう。

キャンプが終わって。みんなチリジリバラバラになる時を迎え、
せっかく知り合った人達とその場で別れることは、
寂しいし、もったいなくて、後ろ髪ひかれる思いだった。

しかし、有難いことに、
私は、エクレシア事務局(方面)へお帰りになる和賀先生達に同行させてもらうことになり、
まだ、一緒に居れることにホッとして、
一路、新たな目的地へ向かった。

そしてここから、今回、私の心を耕してくれるもう一つの出会いが始まるのだった。
翌日は、いよいよ安息日礼拝。
今回押さえておくべき重要なメインイベントなのだ。

私はクリスチャンじゃないけれど、
数十年ぶりの先生のお説教を聞けることが嬉しくて、感謝を込めて有り難く傾聴させていただきます。と念じていた。

ところが…、
二日続けての寝不足がいけなかった。
私の意に反して眠気が差した。
必死に抵抗して、意識の有る限り、何度も、
まぶたに力を込め見開いて頑張ったにもかかわらず、
私は不覚にも、ゾンビの様な魂の抜けた姿をさらしたまま、
夢の中に入ってしまったのだった。フンガァ~。

気が付いた時は、全てが終わっていた…。

またまた、ガックシっ(>_<)、
重ね重ね残念な私。
心ばかりの感謝を表すつもりで参加したのに、
ただの恥の上塗りにしかなってない!

しかし、後悔で重くなった私に対しても、
先生はずっと優しく接してくれた、父親の様なその暖かさが身に染みて、
全部許してくださってるのだと実感、
お陰で重苦しい心が癒され軽くなった。
なんてクリスチャン的な日なんだ!!