今朝未明に義理の母(夫の母親)が亡くなりました。
86歳で、骨髄癌でしたので、ある程度の覚悟はできていました。

しかし・・・いざこの世にもう存在していないと知るのはつらいものです。

結婚当初、彼女は私につらく当たっていました。
独特のラテン・マザーでした。息子を常に自分の支配下に置きたいというヨーロッパの地中海側の国に
多いタイプの即物的かつ利己的な愛情を露わにする人でした。

私はかなり苦しめられましたが、この三年間ほどは非常によい関係を築くことができ
私たちは完璧に「よい女友達」になっていました。
彼女は先日、家に遊びに来てくれた際にも、夫のいない時を見計らって
私に「うちの息子を幸せにしてれて、ありがとうね!」と耳打ちしてきたほどです。

人間は変わります。
宇宙は常に変化しています。
ですから、常に私たちは同じ人を「新しい人」として見る=許す ということが
自然の掟だと、私は考えています。

実は・・・私は義理の母のお葬式には出席しないつもりです。
義理の兄のお嫁さんとの確執があったゆえです。
私はもう我慢はしない、と夫に打ち明けました。
まずは、自分の精神を清浄に保ちたいからです。
嫌いな人間には会わない。たとえ親戚でも会わない。
私はそう決めたのです。
他人のために愛情をベースにした「自己犠牲」は喜んで払います。
しかし、自分をいじめるのをずっと許しておくのは「忍耐」ではなく、「自虐」です。
自虐は1番してはいけない行為です。

義理の兄の嫁にはかなり悩まされました。
彼女の性格は変わりません。
それならば、彼女を憎まないためにも、私は遠ざからなくてはならないのです。
それが自分に対する愛であり、彼女に対する慈愛でもある。
そう判断したのです。

義理の母の遺体には安置所まで、会いに行きます。
そして、49日(仏教徒式ですが・・・)の間、彼女のために晩ご飯を作り
いかにも彼女がそこにいるように振る舞います。
毎日、彼女がやすらかに天国で過ごせるよう、またいつか人生を共にできるよう祈ります。

しかし、私はお葬式には出ません。

皆さん、お墓とか豪華なお葬式とか戒名とか・・・必要でしょうか?

私は仕事の都合で、大好きな祖父、叔父、叔母の葬儀にもお通夜にも参列できませんでした。
それでも、彼らは私がつらい思いをしている時、私を訊ねてくれました。
何を言うでもなく、たったひと言「大丈夫」とか「君が幸せじゃないと僕は哀しいよ」とか
そんな言葉を残してくれました。

魂は間違いなく存在します。
それは宗教とは関係ないと私は信じます。
どんなやり方でも構わないのではないでしょうか?

私は義理の母と人生のたった8年間を共有させてもらった時間に、そして彼女が私につらく
当たったことを後悔し、涙ながらに2度詫びたことに感謝したいと思うのです。
それは私たち双方の学びでした。

ジャクリーン(義母の名前)、私に学びを与えてくれて、どうもありがとう。
来世でもまた友達になろうね♡

ありがとう。