我が家の聖観音菩薩立像⬅︎①へ
を部分的にマクロ撮影しました。

色を例えると赤みを帯びた金色です。
閻浮檀金という表現が適していると
思います。

黒く見えるものは黒漆と思われるものです。
肉眼では確認できないサイズの
凹みにも黒漆が流れ込んでいるため
全て除去することは非常に困難です。

仏像の繊細な彫刻や顔の表情等が
わからなくなる程の膜厚で黒漆と
更にその上に金泥が塗られていました。
(無数にある傷や破損箇所も当初は
全く確認することができませんでした。)

これは造仏時(平安時代)からではなく
後の時代において意図的に仏像の素材を
隠していたかの様に感じられます。

そして黒漆と金泥はそれぞれ異なる
時代に塗られたものだと思います。

◉黒漆
①黄金仏の存在を隠す。
②盗難等を未然に防ぐ。

◉金泥
①薄黒いくすんだ色をしていた為
明るく仏像らしい色に近づけた。
②我が家の先祖は江戸時代の絵師
旭岳麟と兄弟である為
金泥を入手することは容易にできた。

黒漆が塗られる前は鍍金が施された
金銅仏とは比べものにならないほど
美しく澄んだ金色に輝いていた筈です。

この仏像に関する古文書はありません。
(数百年間代々大切に受け継がれてきました)

浄土真宗は阿弥陀如来を御本尊として崇拝
することから我が家の先祖が改めて
聖観音菩薩立像を仏壇に祀る
ということは無いはずです。

この仏像は少なくとも証如の裏書にある
天文3年(1534年)より以前のものであると
考えられます。
また実如の御文は恐らくそれよりも前から
我が家に存在していた事も推測できるので
仏壇に祀られ始めたのは室町時代より
遡った南北朝時代の可能性もあります。

我が家はこの地域で最も古くから
現在まで続いている家になりますが
これまでの歴史上でこの地に唯一
所縁のある高貴な方といえば
護良親王(雛鶴姫及び従臣)になります。

私有地内に菊の御紋が飾られている
一間社流造檜皮葺の神社が高根山(護良親王
の御首級を最初に祀った山です。
百年ほど前まで所有していました。)
の向かい側の山腹にありますが
私は乱世の中で密かに雛鶴姫を埋葬した
真の雛鶴神社ではないかと感じています。

現在の雛鶴神社は雛鶴姫が越えた峠を
江戸時代に雛鶴峠と称して
その両麓に祠を設けた場所の名称です。

未だ日本国内で現存事例のない
古からの言い伝えにある
一寸八分の黄金聖観音菩薩立像。

護良親王であれば木彫仏や金銅仏ではなく
金無垢の聖観音を携えていたことも
十分あり得ることです。

山梨県内には残念ながら仏像の蛍光X線分析
を行うことができる検査機関がありません。

酸化による変色や錆(緑青)が全く無い
ことから銅(金銅仏)の類ではありません。

仏像内に残されている土(中子)の成分分析で
造仏時の場所や時代等がわかる可能性が
あります。

仏像研究をなされている大学教授の方から
ぜひ見解をお聞きしたいです。