「それでは、お人柄についてお話しいただけますでしょうか?」


電話の女性からの問いかけに、喪主である弟が困ったような顔を私に向けた。


地元ローカル新聞の訃報欄には、昔から、まるで結婚式で新郎新婦を紹介するほどにプライベートな情報が載せられるのが通例だ。


さすがに今日では、少し控えめになってはいるものの、全国紙の訃報欄のようにあっさり葬儀の情報のみとはいかない。


仕事、学歴、趣味、家族との関わりなど、添えられる内容は人それぞれだ。

うん、そうなんだけど…


私の父は、「いわゆるこういう人」というカテゴリーのどの表現にも当てはまらない、かなり変わった人だった。


寡黙だったが、別に物静かな人というわけではなかったし、


近寄りがたい人だったが、威厳なんてものはこれっぽちもなかった。


父は、20歳頃から日記を書いてきた。

毎日夕飯前になると、家族がいるリビングの座卓で、父は日記を書いた。


父は、出来事や、思っていることなどを話さないことがとても多く、母は必要に応じて、こっそり日記を見て、父のことを把握してきた。


勝手に日記を見るなんて!と腹が立つ人もいるだろうが、日記を見た程度のことで、父が怒るとは考えにくい。


とはいえ一応、母はたまに"こっそり"日記を見ては、父の行動や気持ちを知ってきた。日記がなかったら、私たち家族は、父のことをほとんど理解できなかっただろう。


私が小学生だった時に、こんなことがあった。


その日は参観日で、わが家は自営業だったので、参観の時間になると、父は小学校へと出かけて行った。


暫くすると、いつのまにか帰宅していたので、母は、参観に行って来たんだなと思っていたという。


その日、父の日記を見てみると、


自分の娘と息子が何年何組か分からず、適当なクラスを見て帰って来たと、書かれていた。


ツッコミどころ満載である。


また、こんなこともあった。


私の弟が小学校低学年の頃。

母は、弟に添い寝をしているうちに、一緒に寝落ちしてしまうことがよくあった。疲れていたりすると、そんな日が数日続いたりもした。


ある日、父が突然怒って家を出て行ってしまったきり、朝まで帰ってこなかった。


いったい何に腹を立てているのか?

いったいどこに行っていたのか??


さっぱりわからなかったので、母が日記を見ると、連日、息子に添い寝をして寝落ちする様子に


「母ではあったが、妻ではなかった」


と記し、近くの河原の土手に車を停めて、朝まで車中で過ごしたと書かれていたという。


つまり、幼い息子にヤキモチを焼いたのである💧


実は、父の母親(私の祖母)は結核だった。


父の幼少期に、父の母親は自宅の敷地内にある離れに隔離された。その後、結構長く生きていたが、最後には気が触れてしまい、子ども達は誰も離れに寄り付かなかったという。


私が高校生の時に、父に

「おばあちゃんて、何て名前?」と聞くと、

父は「知らない」と答えた。


晩年、私がお願いして、父方のお墓に連れて行ってもらうと、父の母親の名前が墓に刻まれていた。


その時は、父は母親の名前をちゃんとわかっていたから、あの時「知らない」と即答するほど、母への思いを"なかったこと"にして生きてきたのだろう。


父とのお見合いの席で、生い立ちを聞かされた母は

、「なんだか可哀想になって結婚した」と言っていた。


だから母は、「お父さんは、幼い頃、母親にぎゅって抱きしめてもらうこともなかったんだと思う」と言いながら、感情を閉じ込めてろくに言葉にしない父に、生涯、聖母か菩薩のような眼差しで寄り添い続けた。


そして母の死後は、その"眼差し"を、私が引き継いだ。


父が旅立った。

父が、私たち家族の父親であったことによって、私たちに与えてくれた物は何だったのだろうかと、ずっと考えている。


それは、「慈しむ愛」だったのではないか。

今は、そう思っている。


母が他界してから、約9年間、父の見守り介護をしてきました。


もちろん、大変な時もたくさんありました。


でも、仕事人間だった私にとっては、介護離職しなければ味わうことはなかったであろう、小さな灯火の様な幸福もたくさんたくさん体験することができました。本当に、幸せでした。


これまでたくさんの方に、応援と励ましをいただきました。そして時に、「お父さんのファンです♡」と言ってくださった方もいました。

本当にありがとうございました。


最期は、穏やかに息を引き取りました。


2024年10月

今年1番大きな月の光が燦々と降り注いだ日に

父91歳 永眠。


(※画像は、父が他界する4ヶ月前に、友人が撮影してくれたものです)