風流(かぜ)を感じるシリーズの第16弾です。今日は「復興を考える③~危機下でのリーダーシップその1」です。



先日うれしいニュースが東北から届けられた。今日はその話を軸に危機下におけるリーダーの存在について考えてみたい。


筆者は10年以上前に気仙沼湾の牡蠣漁師の話を知った。名前は畠山重篤さんという方だ。

もう20年以上も前に畠山さんは、気仙沼の美味しい牡蠣を復活させるために様々な取り組みを行い、見事素晴らしい牡蠣を手にいれた。


まず、源流の川の水質を改善させるために、自らが出来ることを全て行った。具体的には、水をきれいにするために、痩せた土地を復活させしっかりとした濾過機能を再現すること、もうひとつは人為的な汚水の排水を食い止めることだと考えた。「森は海の恋人」という運動である。


漁師なのに植林から始め、元の肥沃な大地を復活させた。これまでにその数5万本。加えて近隣住民に何度も説明会を実施し、生活排水の量を押さえる協力を依頼し、その理解を得られ見事類まれな牡蠣を手に入れるにいたった。その活動なんと17年以上だ。


筆者は、折に触れてこのエピソードを、セミナーやセッションでの講演の際に事業戦略を如何にして実行できるものにするのかについての、事例として紹介してきた。事業戦略と分野こそ違えど、大変素晴らしい取り組みだ。



その畠山さんが久々にテレビ出演をされていた。畠山さん達の牡蠣は今度の津波で壊滅的な打撃を受けてしまった。しかし、いち早く復活させる活動を自らが始めたのだ。


曰く「海の再生は我々が思っているよりずっとはやいのさ」そして、当時を彷彿とさせるが如く、周りのメンバーをどんどん引っ張って、気仙沼の牡蠣復活に向けて邁進されている。

しかし、今回の震災でお母上を亡くされておられるのだ。心痛お察しするに余りある。心よりご冥福をお祈り申し上げます。


髪は白くなられ、皺も増えたがパワーは聊かも衰えていないようなご様子だった。

行動が伴ったリーダーは心強い。それは彼が以前に成功しているからではない。何故なら、最初の取り組みの時は牡蠣のために植林することを全ての人が理解し、受け入れていたわけではないし、変人だと思った人も多かったことだろう。


今回とて、読者諸氏も気仙沼近辺の海の映像をご覧になられていれば、「え、この海で本気で牡蠣を再生させるのか?」と感じる方が寧ろ自然とさえ言える。


しかし未曽有の危機に際し、出来る出来無いという効率を、初めから頭だけで考えたところで何の意味があるのか?何かかわるのだろうか?


今必要なことは復活させようとする意思の強さと行動だ。

確かな理論に裏付けられた活動ではなくても、心ある人は、ひた向きな活動をする人をみて理解するはずだ。


東北地方に「眼(まぬぐ)は臆病で手は鬼になる」という言葉がある。瓦礫をひたすら片づける漁師が教えてくれた。


悲惨な状況を目だけでみても、途方に暮れるだけ。ともかくひたすら手を動かせば、手は鬼になって信じられないような働きをするという意味だそうだ。


千里の道も一歩から、手を鬼にする毎日を続ける姿をみても、何も感じなければそれは最早、ホモサピエンス(知恵のある人)ではない。

リーダーを理論で語ることは容易い。しかし、人は理論については行かない。危機であれば尚更だ。


何もないところに希望の灯を灯し、人々に勇気を与えるのがリーダーの役割だと筆者は考えている。

そのために必要なことは、何をするために集まったのかというゴールを最初に示すことが重要だ。そしてゴールに向け愚直に行動する。


結果は頑張った分だけ必ず現れる、古今東西メカニズムは同じだ。しかし、畠山氏に悲壮感は感じない。海を信じ、仲間を信じているからだろう。こんな時代だからこそ信頼できる喜びを感じたい。

風流(かぜ)を感じるシリーズの第15弾です。今日は「復興を考える③~自分に出来る貢献を考える」です。


3:11から1ヶ月が過ぎた。
被害の全容が明らかになるにつれて、今回の震災+津波が如何に甚大なものだったかを思い知らされる。


義援金の額、ボランティアの人手、各国からの支援はこれまでにないほどの規模になり、決して十分とは言えないが、緊急対応の活動はたゆまず続いている。


しかし、この先の道のりは遠い。


今行われている支援、それにかける人々の思いは尊いが、今のステージの活動は、あくまでも危機対応。

中長期的な「復興」のみならず、失われたもの、機能の短期的な「復旧」にも、今のステージの「危機対応」の活動とは、別の次元の活動が必要となる。



依然大きな余震が続き、予断を許さない状況の昨今だが、やがては小康状態になるだろう。

残るは原発だが、これとて何れは収束する。


多くの人は、今行われている活動こそが、「支援」や「ボランティア」だと考えているかもしれない。
しかし、本当に支援が必要なのはこれからなのだ。


神戸も復興に10年を要した。今回の震災の規模はそれを遥かに凌駕する。


これから必要な支援は、道、町、インフラを元通りにすることではない。

何故ならば、「元通り」を目指そうとすると、利己主義に走る輩による陣取り合戦が必ずや始まり、小さな単位が互いに自己主張する継ぎはぎの都市になってしまう恐れがあるからだ。


我々がチャレンジするのは、新しい概念の町、コミュニティを創造することだ。100年、1000年を見据えた都市のグランドデザインを考えるべきだ。


しかし、今回の規模の災害後にこれをしようとすると、当事者だけでは如何ともしがたい。

様々な才能、視点、技術、経験、見識、そして大きな投資が必要となる。


今こそ日本の叡智を結集するのだ。

我が国がかつて経験したこともないような壮大なプロジェクトのために。


そのスケールをイメージしよう。
そして、自分も国家の一員としてどのような貢献ができるのかを考えるのだ。


国を作るのは政治家ではない。

ましてや企業でもないし、官僚でもない。


政治家とは本来は「代議士(人に代わって議論するために、民に選ばれただけ)」であり、官僚とは本来は「Public servant(公僕)」であり、国をリードするのは我々自身でなくてはならない。

自らの個性を活かし自分にしかできない貢献を考えるのだ。

その気概を持つべきだ。


そして諦めない限り必ず樹立できる。


国に何かを求めるのではなく、我々自身がどのような支援、役割、貢献をするのかを自ら考えるべき時だ。


この苦難を乗り越えた時に本当の独立国家、本当の意味で世界に冠たる民主主義国家、「日本」が樹立できるのではないだろうか。誇り高き民族としてのアイデンティティを取り戻すのは今なのではないだろうか。





















風流(かぜ)を感じるシリーズの第14弾です。今日は「復興を考える②~後手から先手へ」です。




福島原発の災害がおさまらない。事態は寧ろ悪化しているようにすら見える。

東電の担当職員が手を抜いているとは思わないし、それどころか命がけの対応をしていることに疑う余地はあるまい。では、何故このような事態になってしまったのだろうか?


今回はこの状況を少し検証してみたいと思う。もちろん、筆者は専門家ではないし、調査をして書いているわけではないので単なる想像の世界の話だ。しかし、教訓として活かせる内容が多くあると考えている。


これまでの一連の報道、対応をみるに、福島原発の事故状況がアンダーコントロール(管理下)でないのは明らかだ。

説明は二転三転して一貫性が感じられず、場当たり的な対応に見えてしまう。

このままでは国民の信頼を失うに留まらず、やがて多くの人は状況に麻痺してしまい、危機感すら慣れという耐性に侵食されてしまうだろう。そしてしまいには、疲弊して精神的に参ってしまうことだろう。

そこでそんな不感症症候群にならないための工夫を考えてみよう。


東電のコメントの変遷から類推するに、当初明らかに事態を軽くみていたとしか言いようがない。客観的に状況を把握できていなかったのだ。全体像を把握するだけの見識がなかった、という表現の方が正鵠を射ているかもしれない。


故に最悪の事態を想定できず、実際に起こることが常に対応能力の許容範囲を超え、全ての打ち手が後手となり、現状を招いたと考えられる。



この仮説が正しければ、これは「人災」である。

仮に想定範囲で管理できていれば、

「少なくともXXは起こらない、その理由はXXだ。故に次の手立てはXXとなる。XXが見られれば成功と判断できる」

という類のコメントが、事故発生当初から出せていたはずだ。すなわち、希望的観測ではなく、検証した事実を根拠として示すことができるのである。


東電や政府の過去の失敗を批判したところで事態の収拾はできないし、前には進めない。よって、ここからはどうすべきかを中心にみて行こう。


そこで重要なポイントは、「後手から先手へ」の攻守交代が出来るか否かだ。

これまで東電は、おそらく目の前の課題に対応する「モグラたたき」をひたすら行ってきたのではないか。



仮にこの場合、予想を超える状態下では、たちまち思考停止に陥る。想定していないことに対する備えは、誰しもできないからだ。従って、また対策を考えるところに戻ることとなり、全体像が見えていないため、ひたすらモグラたたきを繰り返すことになる。



社内の経験者や海外の専門家に聞くでも良いだろうし、過去の事例でもよいので、ともかく目の前の事象に捉われず大局的に考え、最悪のシナリオを想定する。その上で他に現実的な可能性の高いオプションを、レベル(最良~最悪までのどの水準か)ごとに考慮するのだ。


そのイメージができれば、自ずと選択の幅は広くなる。加えて、どの程度のレベルかを見定めるプロセスから始めることとなり、事態の把握がより客観的で迅速になる。



更に初めから最悪のシナリオを想定することで、精神的な負担を軽減でき、常に余裕を持った攻めの行動が可能となるのだ。この状態こそが、後手から先手への攻守交代である。



自ら手詰まりだと感じた瞬間から、人は、思考が止まる。

問題は、実際に手詰まりか否かではなく、思考停止することで、窮地を脱する努力をしなくなることだ。

思考停止は、非常に怖い事態だ。常に選択の幅を持つことが、冷静な行動を担保する鍵なのである。


我々民間人にとっても、今回の震災でも学べることは多い。
先手を打つことができれば、メディアや東電、政府のコメントに一喜一憂することもなく、自らの意思で行動することができる。


従って、極端な買い控えや買い占めを行ったり、必要以上に我慢をして精神的に参ってしまったり、といったモグラたたきから、納得し、自分の意思で前向きに行動する人間らしい営みを可能にできるのである。