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 以前触れた瞑想時に使っている「炎」の動画と関連した話(今も瞑想は当然続けている)。

 

 

 発達障害としてはグレーゾーンだと思ってる ~前自分で調べたのはASDだったので、基本はASD気味かとおもってたが、最近はASDとADHDへの学問的解釈も昔とは違う感じがあるので、まあようわからん~ し、実際のところはようわからんが、「ラカンの欲望があてはまらない」という意味では、自分は本当に「競争」と「政治」が面倒くさい。。。本当それらにはできるだけかかわりたくない。。。実際、信頼しあえた家族内じゃ政治は一定以上起きないと思う(子供時代の家族が信頼し合えた家族だったかは自分にはようわからんが)し。

https://www.youtube.com/watch?v=fKTRXqB6C9Q

https://www.youtube.com/watch?v=g4LJuSIBmmo

つーても後者は曖昧過ぎるから誰にでも当てはまる気はするけれど。


 でもこういうアイデンティティとしては、「「こういう明確に固定した自己観がある私(の自己感)」が、瞑想通してどう変わりうるのか?」って話ではある( 後、1年以内には他のでかい環境変化もあるので、そこからの影響も興味は強くある )。 本当、瞑想のおかげで見えたこともあるけど、「苦しいし、普通ならそこでやめるんだけど、でもそれが自分だし、その自分が嫌いじゃなくて(良い悪いは別にして)執着があるんだ」と思うところも正直あるし。

 

 

 一方で、仏教の「無我or非我」的な自己観・世界観は、たとえるなら、「ろうそくの炎」とみなすことができる。例えば以下のようにとあるお寺では説明がある。

 

https://www.engakuji.or.jp/blog/34806/

> たとえでわかりやすいのが炎であります。
>炎には実体がありません。
>これが炎だという固定したものがあるわけではないのです。
>ゆらゆらと常に変化し続けています。
 

これが無自性である。

 

 

 ろうそくの炎は開放系だが、以下のように、3層構造を持つ。

 

 

そのため、炎は、以下の散逸構造の実例の一つである。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/散逸構造

> 散逸構造(さんいつこうぞう、dissipative structure)とは、熱力学的に平衡でない状態にある開放系構造を指す

 

 まあ、以下のように「定常状態」として散逸構造を定義すると、現実の炎は、「完全に定常状態とはいいがたい」気もするので、定義次第では多少違うかもだが。。。

 

https://diamond.jp/articles/-/223895?page=5

>この炎のように、流れがある非平衡状態なのに、定常状態(形が変化しない状態)である構造を「散逸構造」という。
 

でも、たとえば、以下は、福岡さんの動的平衡のイメージ動画。「動的平衡って、平衡じゃなくて、散逸構造の話でしょ?」とよくいろんな人につっこまれてるらしい ~全くなので、実際のこのイメージ絵の私も「まったく平衡してない」のはまあ良いとして~ が、これならあえて動画作らずともやっぱり「ロウソクの炎」の喩えでバッチリだと思う。

https://youtu.be/FEPxkPvpcI4?si=891sGmLIli3Nyk4S

 

というわけで、自分の理解では、こういう自己観は、以下の句で言われてる「私=舟の道」と同じものだと思っている。

 

>海原に舟行く道はなかりけり 舟行く道ぞ舟の道なり

 

 実際、

 

〇それが「私らしい」と思うから、特定の行為を行う

 というよりはむしろ

〇(望もうと望むまいと、それが幸福だろうと不幸だろうと、)特定の行為をずっとコストをかけてやってきたがゆえに、その行為が「私(らしさの一部)」になっている

 と思うし、「未来は不定」だとも思うから。「今いる立ち位置(現在)は決まってるけど、そこからの方向は(意識的でさえあれば、自分のことは、ある程度までは、)選べる」という意味で。

 

 

 

 こういう「(仏教的?)な自己観」と、「実際の自分個人の固定的なアイデンティティ」のギャップ。 これがどう変わりうるのか? 多分変わらないところも多いのだろうけど、でも同時に少しずつor急激に変わりもしうるだろう。 これまでもそうだったのだから。 

 

。。。などと他人事のように思ったりしている。 まあでも「頑固は頑固」よ、自分は。その一部は「私の意志」だし、そこは仕方がない。 少なくとも、一部は『自由への旅』で書かれていた

 

●私は怒りたいから怒り続けているんだ

 

的なところがあるし、それを自覚してなお、「まだもう少しだけ続けさせて」と感じているから。 それが「今の私」。