私が、いつも読ませていただいている方のブログです。
リブログと言うのを初めて試しています。
これでいいのかしら?
何が、ジレンマかと言いますと、
私の今、エネルギー泥棒は、母である、と言うこと。
病的な心配性。
父が癌で亡くなって一年。
それこそ、後を追って死んでしまうのでないかと、みんなから心配された。
娘として、母を支えなければ、という思いで、
できるだけ、母を訪ねるようにしていた。
自分も憂鬱で、何日か行けない時は、行かなきゃ、と言う罪悪感。
何かしらの差し入れを持って訪ねる私を心待ちにしてくれている母。
しかし、すべてをマイナスにとらえることに、耐えられなくなってきた。
少し前に、ひとりさんの本を読むように勧めたら、読んでくれたようだけど。
いっとき、元気そうに見えたけれど。
家が雨漏りすることで、ブルーになる。
これから、家の手入れが必要になってくるのに、父さんが死んでしまって…
と言うので、「死ぬのに都合の良いときなんてないよ!」と返したが。
父は、母が暮らすのに不自由しない程度の蓄えも残してくれた。
これは、心配症という病気。
母には、出産から子育ての間、言い尽くせないほど世話になった。
とても感謝している。
けれど、母の心配性に触れるごとに、だんだん募るのは、
子供時代、ずーっと抱いていた悲しい感情、自分は愛されてない、愛されたい、
という思いがよみがえってくる。
自分の中では、もう片付いたと思っていたのに、そうでは無かったのだろうか。
jw現役の頃は、自分が二世だったら良かったのにと、本気で思っていた。
そうだったら、自分は幸せだったはずと思い込んでいました。
こんな話はよくあったのかもしれないけれど、
子供の頃、自分は、「橋の下から拾われてきた」とよく言われていた。
その言葉は子供の私が、いじけてしまうには、十分だった。
どうせ、橋の下から拾われてきたんでしょ、ってね。
子供時代に母から可愛がられた、と言う記憶が、無い。
母自身も、6人兄弟姉妹の4番目で、親から可愛がられるということが無かったのだろう。
母の他の姉妹はみんな、どちらかというと元気で明るい。
母が生まれた時、祖母は、産後すぐに働いたため、体調を崩し、実家に帰っていたようで、
赤ん坊だった母の世話は、お姉さんがおもゆを飲ませていたのだとか。
おもゆじゃね……
それで、兄弟の中でもひ弱なのかもしれない。
そんな事情を知るにつれて、母に対する見方は変わっていったけれど。
子供の時は、そんな洞察などあるはずもなく。
中学生の時、バトントワリングをやってて、その仲間の女子が、
やたら、早く家に帰りたがるので、なぜかと聞いた時、
家に帰って、お母さんとおしゃべりするのだという。それが楽しみらしい。
? ? ? お母さんとおしゃべり?
そういう、事は自分の生活の中には無い事だったので、ピンとこなかった。
高校生の頃は、すでに死にたい、と思っていた。
それを母に伝えると、自分は、死にたいと思った事なんて無い、
とピントのずれた返事が返ってきただけだった。
また、自分が母に愛されていないと思う、と言うことも伝えた。
その時も、自分は子供にどもに愛されていると思っている、
という、またまたピントがずれた返事。
そして、丈夫でない身体で、工場で働いていたため、母はいつも疲れていた。
家の手伝いはまあまあしてたと思う。
中学生からは、学校の帰りにスーパーに寄って、買い物して帰るのが常だった。
親しい友人も、親が共働きだったから、一緒に買い物して帰っていた。
「リボンうさぎん家、今日のおかず何?うちはハンバーグ。お肉屋さんで、
ひき肉買っていくわ」という具合。
そして、サラダなど、何か一品は作っておいた。
のちに聞いた話では、とても助かっていたという事だが。
その時に言ってもらいたかったね。
自分は母に愛されていたんだ、と実感したのは、長女を産んだ後。
とてもかわいがる様子に、自分もそうだったのだな、と理解できた。
自分が親になる事で、母との間のわだかまりが、少しずつ、融けていったんです。
こうして、振り返る事で、書き出す事で、ずいぶん心和らぎました。
少しずつ、書いていこうかと思います。
読んでくださりありがとうございました。