戦後最大の事件としてしられる無差別殺人事件。

地下鉄サリン事件

この事件、地下鉄サリン事件は化学兵器が使用された史上初のテロ事件として、全世界に衝撃を与えた。
カルト新興宗教のオウム真理教が起こした化学兵器を使用した無差別テロ事件。

オウム真理教元代表で教祖、麻原彰晃(あさはら しょうこう)。
本名は松本智津夫(まつもと ちづお)。
2006年9月15日、最高裁判所は特別抗告を棄却し、1審通り松本への死刑判決が確定した。

この事件に関与した高橋克也・菊地直子・平田信は未だ逃亡中で全国に指名手配されている。
この実行犯には懸賞金600万円がかけれれている・・・
この情報は、2004年11月の内容になっているそうです。

3人の実行犯の写真・及び声が公開されています。
http://www.npa.go.jp/wanted/1/oumu1.html

こちらは写真だけ。
http://shock.gray-japan.com/ura/tehai/file-0003.html

下からの分は転記したものです。

概説
1995年3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現・東京メトロ、以下営団地下鉄)丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら12人が死亡、5,510人が重軽傷を負った。日本において、当時戦後最大級の無差別殺人行為であるとともに、松本サリン事件に続き、大都市で一般市民に対して化学兵器が使用された史上初のテロ事件として、全世界に衝撃を与えた。[1]。

事件直後、この5編成以外でも数10編成で事件が発生したと情報もあったが、これは情報の錯綜などによる誤報であり、5編成以外で発生はなかった[2]。

有機リン系中毒の解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル(PAM)は当時多くの病院で大量ストックする種類の薬剤ではなく(主に農薬中毒用の薬だった)、被害がサリンによるものだと判明するや瞬く間に都内でのストック分が使い果たされてしまった。このため全国の病院へ収集令が出されることになり、殊に東海道新幹線沿線では各病院の使者が最寄り駅まで薬剤を届けて別の使者が東京行こだまに乗車して各駅で受け取るという作戦が展開された[3]。

営団地下鉄はサリン散布と分かるまでは、霞ケ関駅などの問題の大きい駅を通過運転とし業務を継続していたが、その後は終日運休、日比谷線は翌日まで運休。その後も霞ケ関駅など4駅は3~6日間運休となり通過運転をしていた。

事件から2日後の3月22日に、警視庁は新興宗教団体オウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供により全容が明らかになった。東京地裁は主犯の麻原彰晃(本名:松本智津夫)を始め、林郁夫を除く実行犯全員に死刑を言い渡した[4]。 ただし高等裁判所では無期懲役判決も多数出ているのは事実である。

2007年現在、この事件に関与した高橋克也・菊地直子の両容疑者は未だ逃亡中で全国に指名手配されている。



犯行
1995年3月20日は平日の月曜日で、事件はラッシュアワーのピーク時に発生した。霞ヶ関の官公庁は普段は午前10時頃に出勤することがほとんどである。しかし、月曜日だけは朝早くに朝礼があるところが多い。8時という早い時間を狙ったのはそういう官公庁の内部を知っている者が実行犯の中にいたからではないかと言われている。

液体のサリンはビニール袋に入れられた上で新聞にくるまれていた。各実行犯は、およそ1リットルのパック2つを運び、林泰男だけが3パックを携帯した。[要出典]

犯人は割り当ての列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い、袋を数回突いた後に列車を出、共犯者の待つ自動車で逃走した。営団地下鉄は、毎日数百万の乗客を輸送し、ラッシュアワー時は非常に混雑するため、車両間を移動することは大変困難であった。


千代田線
千代田線は林郁夫[4]と新実智光が担当した。

マスク姿の林はJR常磐線各駅停車から直通する千代田線綾瀬発代々木上原行列車番号A725K(JR車両による運用)の先頭車両に北千住駅から乗車した。新御茶ノ水でサリンのパックを傘で刺し、逃走した。列車はそのまま走行し、二重橋前-日比谷間で乗客数人が相次いで倒れたのを境に次々に被害者が発生し、霞ケ関にて運転を中止した。同線では霞ヶ関にて通報で駆け付け、サリンとは知らずに危険物を排除しようとした駅員数名が被害を被り、うち駅長と駅員の2人が死亡し、231名が重傷を負った。


丸ノ内線(荻窪発)
荻窪発丸ノ内線は広瀬健一[5]と北村浩一が担当した。

広瀬は列車番号A777の第3車両に乗車し、御茶ノ水でサリンを散布した。列車は運行を継続し、荻窪で新しい乗客が乗り込んだ。新高円寺で運行が停止されるまで彼らはサリンの影響を受けることとなった。同線では1人が死亡し、358名が重傷を負った。


丸ノ内線(池袋発)
池袋発丸ノ内線は横山真人と外崎清隆が担当した[6]。

横山は列車番号B801の第5車両に新宿から7:39に乗り込み、四ッ谷でパックに穴を1つ開けサリンを散布した。列車は8:30に目的地に到着し、B901として折り返し池袋に出発した。本郷三丁目で駅員がサリンのパックをモップで掃除し、B901として池袋へ再び戻った。列車は新宿に向け運行を継続した。列車はサリン散布の1時間40分後、9:27に国会議事堂前で運行停止された。地下鉄サリン事件では、唯一死者の出なかった路線である。


日比谷線(中目黒発)
中目黒発日比谷線は豊田亨[7]と高橋克也が担当した。

豊田は中目黒発東武伊勢崎線直通東武動物公園行きの列車番号 B711T (東武線車両による運用)先頭車両に7:59に乗り込み、恵比寿でサリンパックを刺した。3駅後の神谷町で乗客はパニック状態に陥り、被害者が病院に搬送された。先頭車両の乗客は移動させられ、列車は霞ケ関へ向けて運行継続された。列車は霞ケ関駅で運行停止した。同線では1人が死亡し、532人が重傷を負った。


日比谷線(北千住発)
北千住発日比谷線は林泰男と杉本繁郎が担当した[8]。

林は他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、自ら進んで3パックを携帯した。彼は北千住発の列車番号A720S(営団車両による運用)の第3車両に上野から7:43に乗車した。林は秋葉原で実行犯のうち一番多くの穴を開けサリンを散布した。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出した。その結果駅では列車を待っていた4人が死亡した。

サリンの液体が車両の床に残ったまま列車は運行を継続し、8:10に乗客が緊急停止ボタンを押した。列車は築地で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がプラットホームに崩れ落ちた。列車は直ちに使用停止となった。さらに通報をうけて駆け付け、サリンと知らずに危険物を遠ざけようとした駅長、乗務員、駅員数人も被害を被った。皮肉な事にサリンを移動させる最中に駅長らが倒れてしまい、暫くサリンがホームに放置されてしまったため、ホームに避難した乗客に二次災害を招く結果となってしまった。サリン散布後列車は5つの駅に停車し、8人が死亡し2475人が重傷を負った。
(Wikipediaより)

より詳しいことは下のサイトで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

http://www.asahi-net.or.jp/~ye8n-nsmr/sarin

http://www.mars.dti.ne.jp/~takizawa/salin01.html


この事件が日本の社会に大きな衝撃を与えたのは事実である。
犯人が一刻も早く捕まることを願う。

次回は坂本堤弁護士一家殺害事件について書きたいとおもいます。
変更の場合はアメリカ同時多発テロ事件について書きたいと思います。