月日は昇り、小学校最後の日になっていた。

卒業式で先生に蹴りをいれようと決めていたため、ドキドキだ。

卒業アルバムには、友達からのメッセージをたくさん書いてもらった。

『中学校になってもよろしくね』

学校が違う優等生にも書いてもらった。

『学校違うけど、私たちはずっと友達だよね?Yと離れ離れになるのはつらいけど、私もがんばるからお互いがんばろうや!』

長ったらしい。そこがこの子のいいとこだよね。そう思いながら私は一人で微笑んだ。

そして、ついに卒業式のため体育館へ入場した。

私の番になり、『はい!』といいお辞儀をして賞をもらった。

そして、終わり教室へ入った。

お別れの歌をクラスで歌う。

先生からの最後の言葉もある。

これがおわれば・・・。

 しかし、私はいつの間にか泣いていた。

もらいなき だ。

先生がクラス一人一人の名前を呼び、泣き出したのだ。

その光景をみて、私も思わずもらい泣き。

蹴りなんてできる状況じゃないと気づいた。

結局私は憎いひいき先生にけりをいれることができなかった。

まぁ、いいや。最後ぐらいいい子で終わろう。

そう考え直し、蹴りの計画は闇のなかへ消え去った。


中学入学式。

仲いい友達とは同じクラスになれるか不安だった。

そして、クラス表をもらった。

唖然とした。

知った人が1人しか同じクラスにいない。

ほとんどが、ほかの中学から来ている人だ。

とりあえず私は教室へ入り、知らない人たちに声をかけてみた。

『おはよう、よろしくね』

すると、おはよう と言ってくれた。

仲良くなれるかな。まぁ大丈夫だろう。

そんな安心感がどっからともなくあった。

 入学式がおわり、母親と帰っていた。

『知ってる人、Oさんしかいなかったーつまんないのー。』

すると母親は、

『あらあら。お母さんも最悪だったのよー。くじでね、役員に選ばれちゃった。名前だけ貸してやったわ』

と、笑いながら言う。

しかし、この頃はすでに、母親と会話はあまりしていない状況だった。

まだ話したいことがある。けど、話せない。

母親は、運転へ集中している。

外の景色を見ながら、『学校遠いなー。』など考えていた。

 次の日、はじめてのクラスで授業があった。

まずは、席がえからだ。

知っている人が1人しかいないし、その子は正直いって苦手なタイプだった。

がりべんで、まじめすぎる。

『こんな子といてもつまんないよー。』とか一人でつぶやき、あたりを見渡した。

すると、一人で席に座ってうつむいたままの子を発見した。

正直見た感じ苦手な雰囲気だ。

その子の特徴は、天然パーマがすごい。前髪までかかっていた。

それに、たらこ唇だった。

案外楽しかったりするのかなー。など思い、一応同じ小学校でもあり、名前は知っていた。

『ねぇ、Mさん 席一緒にならない?』

すると、『うん!いいよ!』

と、返ってきた。

友達ができた。と思いその後二人でいろいろな話をしながら、はしゃいでいた。

案外、天然キャラで楽しいやつだった。

私は放課後、毎日Mと遊んだ。

いつの間にか、親友に近くなっていた。

 出来事、すべて母親に話したい。

話せない。話したい話せない、話せない。

学校が、1学期、2学期・・・と終わり、私はついに我慢の限界になった。

小学5年以来、母親と会話をまともにしていない。ストレスも限界だ。

そして、何をおもったのか私は学校に行かないようにした。

学校がつまらないわけではない。ただ思い出ができすぎて、話したいのに話せないという状況がつらすぎた。

なので思い出を作らないほうがいいかも。と考えた。

この考えは、もちろんバカな私にしか考えられないことであろう。

実際、今は後悔している。

私は1年近く学校へいかなかった。

時々は行っていたけれど、そうとう暗かったであろう。

いつの間にか、部屋に閉じこもりぎみになっていた。

外へ行きたかった。とにかく外で遊びたかった。

けど、母親への対抗だ。

ここで外へ出ると母親は安心するのではないか。とにかく心配かけたかった。

母親から、『学校行きなさい!』と怒鳴られる日々が続いた。

だったら話ぐらい聞いてよ。心のなかでそう叫んでいた。

私の心は、すでに弱りすぎていた。

体はガリガリになり、30キロまでいっていた。

もうだめだ、と思った母親は、私に学校へ行けと言わなくなった。

これは見放されたのか?そう考えるとなんだか自分がバカらしい。

相手にしてほしかったからこその行動なのに、逆に見放されたんでは意味がない。

母親に、『もう見放したの?』と聞く。

『そんなわけないでしょ。無理に連れて行こうとも考えたけど、今のあなたにはよくないってわかっただけ。』

と、いわれて安心した。

そして私は、中学2年になり髪を染めた。お酒も飲むようになった。

今では軽いアルコール中毒だ。

そして毎日、母親に内緒で街へ出かけていた。

男をひっかけるためだ。

学校へいかず、そんなことをしていた。

ナンパを待ち、ナンパされるとそのままついていき遊ぶ。

いい加減、その生活にもあきた。

そして、思い出した。パソコンだ。

私は父親にパソコンを買ってもらい、早速兄にボンバーマンをインストールしてもらい

パソコンをはじめた。

キーボードの練習をしたりしていた。

私は集中力が強いため、気づけば何時間もパソコンとにらめっこしていた。

そう、私は 廃人 そのものだった。

けれど、どうでもいい。私は死んでもかまわない。

自殺しようともした。

しかし、自殺なんてする勇気はどこにもなかった。

そう、私は弱すぎたのだ。

私は、いうまでもなく母親が大好きだ。

何があっても相談にのってくれていた。

その分、私も母親にはすべてを話せていた。

父親は別だ。 父親は家庭をかえりみない人だ。

仕事ばかりで、家族を大事にしてくれない。母親からはそう聞かされていた。

実際、そのとおりだ。

休みの日にも、会社へ出勤し私は父親との思い出があまりない。

母親との思い出は数え切れないほどある。

・・・しかし、私が小5の頃から母親と少しずつ距離が開いていた。

理由は、高校時代の友達と会いはじめていたようだ。

毎日、携帯を気にするようになった母親は、私と話しをしていても

途中でメールに専念しだした。

私は『つまんないー』といいながら、絵を描いていた。

しかし、ある日のことだ。

母親が6時になっても帰ってこなかった。

当時の状況では考えられない時間だ。

いつもは、私が学校から帰宅する前には帰ってきていたのに。

何だか急に不安になり、寂しくなった。

小学5年・・・だったら普通の人なら平気なのかもしれない。

逆に、親なんていないほうがいいと思う人もいると思う。

けれど、私は違った。母親が大好きで、すごく大事だ。

『マザコン』などでは決してない。

ただ、話がしていたい。

そして、時計が7時をまわった。

私は半泣きになっていた。

すると、母親がかぎをあけて帰って来た。

『遅いーどこ行ってたの 心配したのにー』と泣きながらいう。

すると母親は

『何いってんの、これからこんなことしょっちゅうなると思うからね』

自立にはちょうどいいことだ。

私はそれを受け入れた。

むしろ、自分も自立したかった。

 そして私は、家事を手伝うようになった。

母親が帰ってくるまでに、洗濯物をとりいれてたたみ、食器片付けだ。

すべてをやり終え、やることがなくなった私はまた絵を描く。

当時は絵をかくのにはまっていた。

学校の友達に、手紙交換をし、手紙の袋の中に絵もそえるのだ。

それがクラスでの流行りでもあった。

私は友達からの手紙をとり、ワクワクしながら内容を読み、返事を書いた。

内容は単純なことで、手紙にする必要もない。けどこれが楽しいのだ。

私は授業中でもこの手紙のやり取りをしていた。

隣の男子に、『○○ちゃんにまわしてっ!』と、小さい声でいい、まわしてもらう。

時々先生に見つかり、怒られたこともある。しかし楽しければいい。

 が、このことで母親と大きく距離が開いた。

母親が帰ってきても携帯ばっかりに集中するので、私は学校での出来事を話せない。

友達との手紙の内容を笑いながら話せない。

話をしていても、母親は生返事だ。

私はちょっぴりストレスがたまった。

話したいことが山ほどなのに。

母親は聞いてくれない。

『ゲームでもしよっかなー』

そぉつぶやき、兄の部屋に入ってゲームをしようといった。

当時、兄は『PCでやる将棋』にはまっていた。

PCで将棋をしている兄に、

『お兄ちゃんゲームしよ』

という。すると兄は

『ボンバーマンオンラインする?』

ボンバーマン。ネットゲームだ。

『オンラインって何?パソコンでするの?』

と聞き、兄は そう と答える。

私は初めて『ネット』というものを体験した瞬間だ。

チャットを見ているととても楽しい。

『Yにも打たせてー』

ねだるようにいうと、キーボード打てるの?と痛い所をつかれてしまい、苦笑いをした記憶がある。

結局、私がいったことを兄に打ってもらうことにした。

しかし、ネットというのはいろいろな人がいることをまだ知らなかった私は

『しね』などいわれると、ムカツキ、ワーワーいっていた。

兄はこのような暴言にはなれているらしく、ネットではしょっちゅうだよ。と軽く流す。

たしかにそうだ。ネチケットを守れない餓鬼は腐るほどいる。

私は、パソコンがほしいなぁとそのとき思った。

自分の趣味を検索できる。行きたい学校も増えるかな。

そんなことを考えていると、無性にネットというものに興味がわいた。

私の母は持病をもっている。ストレスから病気をひきおこしてしまった。

それは私を産んでから3ヵ月後の事だったらしい。

母は急にだるさを感じだし、母の親の家(実家)で、看病をしてもらっていたらしい。

父はもちろん一人で家にいた。私には兄もいるので、兄は母の実家にいたそうだ。そして私も。

しかし、一向に体調がよくならなかったらしい。

そして母の父親(T爺)は母にこういったのだ。

『本当はあちらの家にお嫁に行ったのだから、あちらでお世話になるのが普通なんだ。』

母は悔しかったらしい。実家に帰ってきているだけでそれほどの言葉を言われたのだから。

そして悲しみにくれ、帰ろうとした時・・・母は倒れた。

急なことだったらしい。

そして、母は病院に運ばれた。

病名は『甲状腺』

だるさが治るはずが無かった。

 母は入院した。

家族がばらばらな生活がスタートしたのだ。

父は家族で住んでいた家。

母は病院

兄は父の実家

私は母の実家

全員が全員居場所が変わった。

私は、母がいないことでろくにミルクを飲まなかったらしい。

兄はトイレにずっといけなかったとか。

父は心配でたまらなく、母に面会しにいくが面会は禁止。

母は無菌室だ。

少しの菌が体内にはいれば死ぬ状況だ。

母は43度すぎの熱が1週間は続いたらしい。

病院で最新の薬を飲んだのが母だ。

その薬がなければ、今の母はなかったはずだ。

よく1週間もたえれた。と医者も驚いていたそうだ。

『ただ子供にあいたい。一緒にくらしたい』

そういう思いが、母を生きさせたのだと母は語る。

私は考えた。本当にストレスだけでこのような病気になるのか、と。

やはり結論はNOだ。どれだけ考えてもNOだ。

父と母は結婚して4年目だ。ストレスも急にきたわけではないだろう。

そのことを母にはなすと、やはり私がよそうしていたとおりだった。

『あなたを産んでホルモンのバランスが崩れた、っていうのもあるよ。』

この時ばかりは、自分を責めました。

本気で責めました。何故産まれてきたのかと。

親に心配だけをかけさせるために、何故産まれてきたのだ。

しかし母はこういう。

『出産をする時には、こうゆう病気になることも覚悟のうえなの。それほどまで苦しんででもあなたに産まれてきてほしかったのよ。』

しかし私は自分を責め続ける。

気がつけば、もぉ4年は責め続けてるっけ。


しかし、この幸せの日々もそう長くは続かなかった。

『私、転校するかも』

Rチャンの衝撃的な発言だった。

今もこの言葉を言われたときはのショックは、今でも覚えている。

その頃は、私以外の人は『携帯電話』というものを持っていなかった。

私は父が使わなくなったのでもらっていた。

着信音の鳴り響かない携帯は、持っていても仕方の無いものだった。


そして季節は小学4年の夏。とても蒸し暑い日だった。

『転校する日が決まったよ』

Rチャンの一言。4年も連れ添ってきた仲間と離れ離れになるのは

とても寂しいものがあった。

『いつ?』

『8月の半ば』

何日かははっきりとは覚えていない。

しかし、ちょうど旅行にいく日と重なっていたため

引越しを見届ける事が出来なかったのだ。

Rチャンのお別れ会がクラスで行われた。

一人一人がRチャンにプレゼントと手紙を渡した。

私にとってRチャンは常にずっといた仲間だから

すごく辛くて、一人で集会中ずっと泣いていた。

すると先生が飴を人より多くくれたことを覚えている。

その先生は、一見いい先生だとおもわれがちだが

大間違いだ。

この先生のせいで私の小学生卒業までの小4~6年までのあいだ

台無しだ。

私が体育の時間にちょっと友達と話すだけで

頭をたたいてくるような、体罰教師だ。

その教師は、女だ。S先生だ。

ヒイキ先生。というあだ名を持っているほどだ。

S先生は 私に何かとケチつけだしてきた。

Rチャンがいる頃からも、そのような差別はされていた。

飴を多くくれたのは生徒の前でいい顔をしているだけであろう。

理由はわからない。

軽いイジメといっていいのかもしれない。

するとRチャンは

『あの先生のいうことなんて気にしなくていいよ。Yは何もしてないんだからね。何かあの先生Yのことが嫌いみたい。』

おっと言い忘れていた。私のニックネームは『Y』だ。

Rチャンは先生に好かれていた。

なぜこのような差別をされるのか、まったくわからない。

Mチャンも好かれているほうであろう。

Kチャンは私と同様、イジメの対象者でもあった。

今でもどうしてあのようなことをされたのか 疑問でならない。

授業中寝るから・・・と 考えると クラスの男子の大半もそうであろう。

しかし、男子には特別優しい。

この先生、小学生の生徒でさえ男ったらしする気なのか。

40すぎのおばさんが。

と、私はおなかの中で笑っていた。

もちろん、こんな教師のすることにいちいち腹を立てない。

しかし、頭を殴られるのはムカツクものだ。

 そして Rチャンは、夏休みになり 引っ越していった。

季節はさかのぼり、小学6年の終わりごろ。

ヒイキ先生に決定的なことがあった。

なんと、クラスの男子のDが腰パンをしていて、その男子にむかって

『どこに股はあるんかね』

といい、その男子の股間をさわった。

この教師 セクハラでもあったのか。

Dは顔を赤くしながら

『うわ!先生へんたい!さいあく!』

と、罵声をあげていた。

そして私はDに声をかける。

『あの先生最悪だね。Dに気があるんじゃないの?まじ気持ち悪いんだけど。大体生徒色眼鏡でみてるし大嫌い。』

するとDは

『あの先生ばばぁのくせにまじうざい。Yもあんなんにたたかれて可愛そうだよな。そいえばYって何かして嫌われたの?』

私は何もしていない。それだけは確かだ。

『何もしてないよ。ただ私のことが気にくわないみたい。何でかはわからないけどね。』

『大変だな・・・まぁ何かあったらいえよ』

するとクラスの生徒が集まってきた。

女子Aが言う。

『D大丈夫ー!?あのばばあに触られたの?腰パンかっこいいのにねー、注意の仕方もおわってなーい?』

と、顔を赤めて真剣に言う。そう、この女子AはDに気があるのだ。

とはいっても、この女子Aの男ったらしにも私は参っている。

あらゆる男子に『ねぇ!○○君すき!』と連発している。まぁいつもの事だ。

女子Aの特徴は目が細くつりあがっている。キツネに似てる。といわれているが本物のキツネではなく、よく昔話ででてくるつりあがった目の細いキツネのほうだ。

そして双子だ。まぁ関係ないのだが。

私は卒業するときは、この先生に蹴りの一発ぐらいいれてもばちあたらないよね。そう考えていた。

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偶然にも、小学3年のクラスがえでもRチャンとは同じクラスになった。

幼稚園の時なかのよかったNチャン、Kチャン、Mチャンとも同じクラスだ。

そして、いつも一緒にいたのは

私、Rチャン、Nチャン、Kチャン、Mチャンだ。

 Rチャンの家族構成は、父母Rチャン。父親がとても厳しい人だった。

そのためわがままではない。逆に思いやりのある子だった。

絵がとてもうまく、絵を描いては『ちょうだい』と言ってもらっていたぐらいだ。

 Nチャンの家族構成は、父母Nチャン、と一人っ子。

Rチャンとはちがい、あまやかして育てられたのか、わがままな子だった。

その事で一度本気で喧嘩したことがある。

そしてRチャンと同様、ポッチャリ気味で私からみたら近づきやすいタイプだった。

 Kチャンは私と同様家族構成は、父母兄Kチャン という4人家族。

こちらも絵がとっても上手な子だ。

体格は中肉中背、で顔はかわいいうちに入るであろう。

 最後にMチャンだ。こちらも家族構成は私と同じ4人家族。

友達思いで何をやるにも積極的。背も高くて頭のいい憧れの人だ。

いつもはこの4人と行動していた。

とても幸せな日々だった。小学1年から4年までは。

友達も多く、休み時間が待ち遠しかった。

かといって、学校に行きたい という思いは無かったが。

ただ単純に友達と話したり遊んだりしたかった。