続いても名心の書評発表です!
次は名心支部二年のキム・ヤンムとんむの書評です(^^)
金富子・中野敏男『歴史と責任-「慰安婦」問題と一九九〇年代』
この本では90年代に「慰安婦」問題が提起されて以来問われ続けてきた「歴史と責任」への深い思想的視野に立って、問題の現在を確認し、いまもなお問われ続けている課題を明確化することを目的としている。
本書は序章と一章から三章を合わせた4つの章からなっている。
構成として、章ごとのテーマに合った多数の論文が掲載されており、様々な著者の観点から大きくは「慰安婦」問題を取り上げている。
序章『日本軍「慰安婦」問題と歴史への責任』では、2007年に幕を下ろした「女性のためのアジア平和国民基金」の活動が終わったことにより、その残った課題から「慰安婦」問題におけるおわりとは何かというのを考えていっている。そして、その解決のためにも根本的な問題を再確認するために世界が大きな動きを見せた1990年代以降の経験から真に学ぶことがあると主張している。
第1章『「慰安婦」問題と日本の過去克服』では、日本軍「慰安婦」問題を中心にして、一九九〇年代以来の日本の戦後補償に関わる諸経験を総括している。ここではまず、女性国際戦犯法廷と国民基金という二つの取り組みを取り上げ、そこで問われたことについて被害者や活動主体の立場からみていき、そのうえで問題を日本の戦後補償全般に広げながら、現在の時点からその意味を整理している。
第2章『世界の過去克服への取り組みから』では、世界の「過去克服」に関する、特に一九九〇年代以降の様々な取り組みを取り上げている。ここでは、韓国、台湾や南アフリカでの「過去克服」がいかなる意味をもちどのように取り組まれたかを整理し、さらに他方からはドイツやフランスの経験から学んでいきそこで問われていることを東アジアの経験と対比しながら、そのうえでこの時代に歴史への責任を問うことの思想的意味を「人道に対する罪」と「フェミニズム」という観点から考えていく。
第3章「何がなお問われているのか」では、第1章、第2章での考察を踏まえたうえで、現在までにも継続している植民地主義を問いていき、その観点から残された課題を検討している。ここではまず、現在もなお清算されていない植民地支配責任について整理し、戦後から残され続けてきた植民地主義の跡をみていき、その被害を受け続けてきた在日朝鮮人のこれまでと現在の状況を考えていき、そしてそのうえでこれまでの植民地主義に対抗する歴史から、特にそこにいた女性の経験から、どのように学んでいくかを考えている。
全体の感想として、「慰安婦」問題を考える上で重要となってくるのはこの本のタイトルにもある、「歴史と責任」であるとまず感じた。この問題は女性への戦争犯罪・国際犯罪に対する普遍的な人権問題として捉えられており、いまや被害者や被害当事国であるアジア諸国だけの問題ではなくなった。そして、戦後直後ではなく1990年代になって一人の「慰安婦」がその過去と向き合うために声をあげたことにより初めてこの問題が本当の意味で問われていくこととなったという、今まで歴史的戦争責任をあいまいにしてきた戦後が、ようやく90年代になって本格的に始まったと言える。そして、その「戦後」と「戦時」の二つの暴力にさらされていた被害者である「慰安婦」たちはこうした「歴史」によって今もなお苦しんでいる。いま自分たちができることは、こうした「歴史」をしっかりと認識し、それにより苦しんでいる人たちに対する「責任」を追及していくことだと感じた。
本の詳細は↓↓↓
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-3286-1
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金富子・中野敏男『歴史と責任-「慰安婦」問題と一九九〇年代』
この本では90年代に「慰安婦」問題が提起されて以来問われ続けてきた「歴史と責任」への深い思想的視野に立って、問題の現在を確認し、いまもなお問われ続けている課題を明確化することを目的としている。
本書は序章と一章から三章を合わせた4つの章からなっている。
構成として、章ごとのテーマに合った多数の論文が掲載されており、様々な著者の観点から大きくは「慰安婦」問題を取り上げている。
序章『日本軍「慰安婦」問題と歴史への責任』では、2007年に幕を下ろした「女性のためのアジア平和国民基金」の活動が終わったことにより、その残った課題から「慰安婦」問題におけるおわりとは何かというのを考えていっている。そして、その解決のためにも根本的な問題を再確認するために世界が大きな動きを見せた1990年代以降の経験から真に学ぶことがあると主張している。
第1章『「慰安婦」問題と日本の過去克服』では、日本軍「慰安婦」問題を中心にして、一九九〇年代以来の日本の戦後補償に関わる諸経験を総括している。ここではまず、女性国際戦犯法廷と国民基金という二つの取り組みを取り上げ、そこで問われたことについて被害者や活動主体の立場からみていき、そのうえで問題を日本の戦後補償全般に広げながら、現在の時点からその意味を整理している。
第2章『世界の過去克服への取り組みから』では、世界の「過去克服」に関する、特に一九九〇年代以降の様々な取り組みを取り上げている。ここでは、韓国、台湾や南アフリカでの「過去克服」がいかなる意味をもちどのように取り組まれたかを整理し、さらに他方からはドイツやフランスの経験から学んでいきそこで問われていることを東アジアの経験と対比しながら、そのうえでこの時代に歴史への責任を問うことの思想的意味を「人道に対する罪」と「フェミニズム」という観点から考えていく。
第3章「何がなお問われているのか」では、第1章、第2章での考察を踏まえたうえで、現在までにも継続している植民地主義を問いていき、その観点から残された課題を検討している。ここではまず、現在もなお清算されていない植民地支配責任について整理し、戦後から残され続けてきた植民地主義の跡をみていき、その被害を受け続けてきた在日朝鮮人のこれまでと現在の状況を考えていき、そしてそのうえでこれまでの植民地主義に対抗する歴史から、特にそこにいた女性の経験から、どのように学んでいくかを考えている。
全体の感想として、「慰安婦」問題を考える上で重要となってくるのはこの本のタイトルにもある、「歴史と責任」であるとまず感じた。この問題は女性への戦争犯罪・国際犯罪に対する普遍的な人権問題として捉えられており、いまや被害者や被害当事国であるアジア諸国だけの問題ではなくなった。そして、戦後直後ではなく1990年代になって一人の「慰安婦」がその過去と向き合うために声をあげたことにより初めてこの問題が本当の意味で問われていくこととなったという、今まで歴史的戦争責任をあいまいにしてきた戦後が、ようやく90年代になって本格的に始まったと言える。そして、その「戦後」と「戦時」の二つの暴力にさらされていた被害者である「慰安婦」たちはこうした「歴史」によって今もなお苦しんでいる。いま自分たちができることは、こうした「歴史」をしっかりと認識し、それにより苦しんでいる人たちに対する「責任」を追及していくことだと感じた。
本の詳細は↓↓↓
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-3286-1