「書きたいという欲求を、くだらない文章を書くことで消化してはいけない」
学者としてそんなことを考えるようになったのは、数年前のことなのだけれど、文章というものは書かないと書けなくなるというのも真実で、それではいざ何をか書かん、となったときすらすらとことばが出てこなくなっているのである。
なぜ、ある一定の人々は文章を書こうとするのだろうか。
この問いを私は高校生の時から抱えている。
インターネット黎明期であったあの頃、私は女子高生である、ということを売り文句にしてメルマガやらなにやら書きまくっていた。そうせずにはいられなかったあの頃は、頭の中がいっぱいだったから、それを外にぶちまけて、引き出しにしまっていくという感覚があって、書いていた。そのお陰か、読むこと書くことはなにもしなくてもどんどん速くなり、勉強を全然しなかった高校時代に、現代文の試験だけは尋常じゃない点数をとっていたりした。我が大学の訳の分からない試験もこのお陰で、国語ではおそらく理系の人間の中では最上位の点数をたたき出していたようだ。
ことばのつうじなさにやりきれなさを感じたのは、遠距離恋愛をしていた頃である。電話がいくらできても、メールをいつでも書けても、逢って顔を見て触れあう感覚には到底及ばなかった。それでも手紙を書いていた。電話をし、メールをし、ことばを交わし続けていなければひどく不安だった。そして、その不安をぬぐえない夜、コミュニケーションってなんだろう?と思っていた。
言語学を志し5年になるが、ついにこの間はバークレーで、かなり大御所の先生(米国の)とお茶していたときに「コミュニケーションにおける言語の役割ってなに?」とか衝動的に質問してみたりしてしまった。
最近、連れに「話が恐ろしく長い」といわれる。
恐ろしく長くなってしまうのは、神経質にことばをつむいでしまうからである。正しく伝わって欲しいという欲求でもって話そうとするとどうしても、長く、単調で、理屈っぽくなってしまう。
エレガントに喋る方法というのはないものか。
私には煩悩が多すぎるのかもしれぬ。
学者としてそんなことを考えるようになったのは、数年前のことなのだけれど、文章というものは書かないと書けなくなるというのも真実で、それではいざ何をか書かん、となったときすらすらとことばが出てこなくなっているのである。
なぜ、ある一定の人々は文章を書こうとするのだろうか。
この問いを私は高校生の時から抱えている。
インターネット黎明期であったあの頃、私は女子高生である、ということを売り文句にしてメルマガやらなにやら書きまくっていた。そうせずにはいられなかったあの頃は、頭の中がいっぱいだったから、それを外にぶちまけて、引き出しにしまっていくという感覚があって、書いていた。そのお陰か、読むこと書くことはなにもしなくてもどんどん速くなり、勉強を全然しなかった高校時代に、現代文の試験だけは尋常じゃない点数をとっていたりした。我が大学の訳の分からない試験もこのお陰で、国語ではおそらく理系の人間の中では最上位の点数をたたき出していたようだ。
ことばのつうじなさにやりきれなさを感じたのは、遠距離恋愛をしていた頃である。電話がいくらできても、メールをいつでも書けても、逢って顔を見て触れあう感覚には到底及ばなかった。それでも手紙を書いていた。電話をし、メールをし、ことばを交わし続けていなければひどく不安だった。そして、その不安をぬぐえない夜、コミュニケーションってなんだろう?と思っていた。
言語学を志し5年になるが、ついにこの間はバークレーで、かなり大御所の先生(米国の)とお茶していたときに「コミュニケーションにおける言語の役割ってなに?」とか衝動的に質問してみたりしてしまった。
最近、連れに「話が恐ろしく長い」といわれる。
恐ろしく長くなってしまうのは、神経質にことばをつむいでしまうからである。正しく伝わって欲しいという欲求でもって話そうとするとどうしても、長く、単調で、理屈っぽくなってしまう。
エレガントに喋る方法というのはないものか。
私には煩悩が多すぎるのかもしれぬ。