長い夜の散歩道。根岸森林公園から中華街
タイトルは増田俊郎"YOKOHAMA"の歌詞より。
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家から坂をだらだら登って、夜の根岸森林公園。
月のない夜だった。時季外れの流れ星が見えるかと思ったが、横浜も都会、街の明かりのせいかとても星は少ない。しばらく天の川も見ていない。悲しいことだな。
思っていた以上に木々の繁った森の中に暗い階段を何段も何段もそっとおりて、池の横。
そう、エリーと抱き合って寝ていた静かな夜、あの池だ。
深い森の静寂に浸りながら、しばし夜露の芝生で佇む。
やがて歩き出し、右手の高台で、みなとみらいの灯を北東に望む夜景スポットを発見。いにしえの競馬場観覧席跡地の廃墟前、その名の通り芝生広場というのか。
そういや、この建物が窓から見えるアパートに住んでいたこともあったっけな。なんでこんなうら寂れた所に住んでたんだか今でもよく分からないけど、チョーズで働いてたみっちゃんが、蓑沢入口の交差点辺りにいたからかな。本当に昔のことを全然覚えていないんだよ。きっと毎晩浴びるほどそこらの Barをハシゴして飲んだくれてたからだろうよ。それでも、よく青木とラスカルが「エザっくん走り行こう」ってきてくれてたな、あの部屋は。
オレがロングツーリングで1カ月ほど留守にしていたら、乞食の大沢のバカが勝手に部屋に侵入して、某走り屋チームの看板かっぱらって置いといたのを見つけられるわ、部屋ん中、ハルマゲドンにされるわしたのも、ここだったな。
森林公園の高台から、そんな蓑沢の裏通りに降りて、ここに牧場があったなんてことも思い出す。横浜の中区で、朝から牛の啼き声がしてたもんな。シュールだったな。さすがに今はもうなかったけど。
狭い一車線の裏道ゆるい坂を登れば、右に米軍根岸ベース。ティムやマックがいた頃は、よく中に入っていたな。ミッドウェイに乗ってる将校の名前を出せば誰だって入れた頃。でもどうやって原子力空母の将校の名前を知るんだ。そう、だからやっぱり誰でも入れる所ではなかったわけだ。
エリアに入った途端に呆れるほど広い空間が広がって、白い所謂ハウスが芝生のなかに余裕綽々な間隔で建ってた。
名前は忘れちゃったけど、麦田にあったドノバンの雑貨屋で仲良くなった白人の大佐のハウスで年越しのパーティーしたこともあったか。
増田俊郎の"YOKOHAMA"を頭の中で奏でようとしたのに、ちっとも歌詞が浮かんでこない。かわりに出てくるのが柳ジョージの"フェンスのむこうのアメリカ"じゃ、ちょっとがっかり。待て、結局どっちも同じじゃないか。増田俊郎=トシスミカワ(柳ジョージへの楽曲提供名)。「YOKOHAMA too much memories.笑いながら歩くセイラーもみんなどこかに消えてしまったけれど・・・・」、なんでこの曲が発売された当時関西にいた俺が当時興味もなにもなく知らない街だった横浜の曲を知っていたんだろう。あの雪の函館でエリーに出会うまで横浜なんか見知らぬ街だったのに。そんな横浜生まれの増田俊郎がその後神戸に移り住んで行ったのも奇妙なすれ違いだ。
根岸ベースからまた少し坂を登って、海軍司令部ゲート前。歩哨がいないけど大丈夫なのか米軍。
消防署前、バスが行き交う不動坂上。
ソーダ水の中に見える本牧のコンビナートの景色を売りにしていたあの店、まだやってるんだな。今は店と海の間にマンションが建ち景色はもう何も見えないという。酷い話だ。
コンビナートといやぁ本牧間門のNTT横浜会館も民営化によって既になし。とうとうこの街は本牧の港になんの感慨も抱かなくなってしまったということか。
と呟きながら、また森林公園沿いに山元町五丁目交差点。これでやっと一周。デカい公園だ。
あの頃、森林公園の中の周回路でミニバイク・タイムトライアル選手権をやってたのを思い出す。もう時効だ許せ。XE75(オレ)、MR50改(ラスカル)、 ポッケ改(大黒)、RZ50改(青木か?)、etc.etc. みんなで、夜な夜なセカンドマシン持ち込んで馬鹿過ぎ。2台づつ同時スタートのトライアル。誰だったかスタート20秒で、登って左のコーナーで芝生にオーバーランしてスイング式のゴミ箱に突っ込んでたな。ああ、水道屋の息子だ。
ラスカルのRG250Γ・Ⅱ型ハーベイのリアシートで横須賀に行ったこともあったな。今でもガンマのエグゾーストノートと倒し込む時の感覚がはっきり残っている。あいつも巧かったな。
本牧A突堤の若造たち、生き残ってたヤツらはみんな上手かった。
伊勢佐木町親不孝通りのギリシャ料理屋の子もいたっけ、サロニコスか。いやサロニコスは南京街のアテネのオーナーじゃん、いや、あ奴はジョージ・マルケジーニアスだ。じゃやっぱり気弱なギリシャ人はサロニコスだ。
大黒や青木、ラスカルたちと、よく夏は湘南へミニバイクを連ねて出掛けたもんだった。まだ原付がノーヘルでよかった頃だったな。もうオレらは横浜のこの界隈でも生粋のアホばっかだったから、海パン穿いてTシャツ着てその上から浮輪つけて走ったり、水中メガネしてバイク乗ったり、オレは下駄履いてバイク走らせたりしてたよな。
そんなバカなカッコで朝比奈峠で、他の革ツナギ着たような他府県ナンバーの400や750をみんなでインからアウトから抜いて行くのが最高の楽しみだった。夜の明けぬうちから逗子の一色海岸に走ってって、落とし穴を堀りまくったりもしたよな。
・・・・記憶の中の永遠の悪童ども、今も走っているか!?
そして、そのまま鷺山通りから途中を左、竹之丸通りへ。こんな坂を登り切った丘のてっぺん不便な場所なのに洒落たマンションが増えてるな。山手ブランドってやつか。野球グラウンド横の小道を下りながら、SAAB900Sで雪の日に立ち往生し10m進むためだけにチェーンをつけたことが蘇る。ガリッと氷を噛んだフロントタイヤのバックトルクまで残ってるな。
木立が切れ視界が開けると遠くベイブリッジの白銀の煌き。本牧の紅いクレーン越しに久しぶりの光景だ。
竹之丸のアパートは今もあった。嫌いだった猫を飼ったのはこの部屋。雨の初秋、庭で鳴き止まない震える子猫にそっと手を伸ばした。ある日いなくなるまでの温かい記憶。小兎のビッケを死なせてしまったのもこの部屋か。玄関で泣いていたオンナの名前が思い出せない。胸の大きな成人式を過ぎたばかりのオンナの子だった。飼っていたハスキーの名前ウルフィーは覚えているのに、その子のことはなにも思い出せない。
2サイクルマシンばかり7台もあったバイクを500Γとスクーターに整理し、でも結局500Γをバリィ君に売ってNSRに乗り始めたのもこの部屋か。いや、しばらくΓとNSRは同時に乗ってたんだ。NSRは随分いたずらされたっけな。ある日第三京浜でミラー両方かっぱらわれてたのに突然気付いたこともあったな。いやなにせNSRだけにサーキット走行の多かったことで、ミラーが無いことに全く違和感もなく、後方確認は目視を基本にしていたからか。その後もタンク盗まれて、しかたなくオールブルーのマシンのタンクのみ赤いのを探してきて、変なトリコロールな色のマシンになってたっけ。1999年に南麻布で盗まれるまでの10年間はまさに、それ以前の乱交的乗り潰し乗り換え多情時代から、NSRに貞操を誓った一穴時代になって行ったわけか。
そうか、横浜最後の場所だったここに住んでなかったら南麻布に移ることもなかったわけだ。ふうん。
結局、横浜では3回中区内で引っ越して4カ所。最初に山手町、次に森林公園裏の蓑沢、そうか妙香寺台の崖の上がその次か。で、竹之丸。
ふと、そのまま中華街まで足を延ばす。35周年のWindjammer前。
23:40頃に辿り着いたが、もう片付けをしていたので、店には入らず、結局ほかのどこにも寄らず帰ってきた。
金子に会いに二階に上がり込んでも良かったんだろうけど、今はもう金子以外知った顔もいないし、いい加減歩き疲れてたんだ。
でも、35年間ありがとう。外人船員Barが乱立していた頃から今に至る移り変わりの早い中華街。随分色んな店がシャッターを閉じてきたのに、今も続いているなんて奇跡のようなことだ。
オレはジョージさんよりも、亡くなった敦子さんが頑張っていた頃に通い始めたから、今もカウンターの左上に掲げてある彼女の遺影にそっと挨拶をして飲むんだ。
南麻布でちょっとは間が空いたが、もうかれこれ27年。一時期は一晩で3回も出入りしていたなんて、なにやってたんだか。
初めて行った時のことは覚えていないけど、きっと酔っぱらっていたんだ、何故かアイリッシュコーヒーを何杯も飲んだのだけ覚えている。冬だったのかな、そうすると。
これからもよろしくな。孤高の帆船、Windjammer。
結構歩いたな。
裸足にスリップオンだったので、左足に靴擦れ。痛いよ。
横浜、長い夜の短い旅。思い出すことばかり多い夜。
YOKOHAMA too much memories.
※1979年8月25日1st ALUBUM「GOOD BYE」9月25日SINGLE「YOKOHAMA」
http://home.att.ne.jp/green/tosh/profile.html
※2 http://www.kanaloco.jp/lmcolumn/entry/id_789
なぜだかメガネをせず歩きだした夜道は距離感が皆目掴めず、
疲れさえも自分では判らなくどこまでも歩いて行ける気がした。
ぼんやりしっとりくらいしずかな横浜の夜。






