何かで迷って悩むとき、普段は気にしない「普通」が気になってくる。
普通はどうなんだろう。
私の判断は普通だよね。
いや普通じゃないのかも知れない。
誰かに普通だよって言って欲しい。
情けないほどぐるぐると同じところを通って、サーキットのように同じ思考を繰り返して、繰り返してでも欲しいものは「それ普通だよ」っていう誰かからの言葉。
それは、いわゆる赦し(ゆるし)で、自分が自分を赦す理由が欲しいだけだって気がつく。
赦しを得るために、その判断を導くための材料をせっせと集める。まるで裁判に臨むように自分に有利な材料を探す。
それはどこまで行っても自分を赦すための行動だと潜在的には知っているから、迷っている度にそんな自分を嫌悪するんだと思う。
赦されなくていいのに。
普通か普通じゃないかは全く問題ではないのに。
答えを導くために大切なのは
その状態で納得できているか、いないか。
その一点だけだと気づいた。
そう思うと、そもそも赦されていたんだと、すっと肩の力が抜けた。
ああ、もう「普通」を探さなくていいんだ。
私の判断でいいんだ。
誰かががまんできることを私ががまんできなくてもいいし、またその逆もしかり。
ぐるぐるのサーキットをとことん走ってみたら突然出口が現れた。
現れるまで存分に走り続けて良かった。
本当に望んでいる状態を選ぶことに自分と周りへの言い訳や材料は必要ない。
自分を一番赦せてないのは自分だったという話。
いつか、あの時は青かったな。。と振り返るための備忘録。