「袂より落つる涙は陸奥の

     衣川とぞ言うべかりけり」


真夏の日差しを浴びながら、奥州江刺の街に降り立つ。歴史を感じる古い民家を取り囲む塀沿いを歩きながら、街を形成している道路の広さ、区画の大きさに驚く。


岩手県は120万人程の人口。そのうち、県都盛岡市は30万人に満たず、ここ奥州市は岩手県第2の都市としながらも人口は10万人程だ。内陸部には同規模のそしてそれ以下の小さな町が点在している。


奥州藤原氏の栄華を支えた金の産出となった

三陸海岸側に至っては、大きくても3万人程、さらに1万人にも満たない小さな町々が港を開いている。


平安京に名を馳せた文の菅原道真、武の坂上田村麻呂。その坂上田村麻呂がこの地に東征したのは1200年前のこと。神話に語られる日本武命の東征もこの地には至ってはいない。


朝廷との争いで、英雄、阿弖流為は坂上田村麻呂に屈するところとなり、妻モレと共に京都へ送られ、田村麻呂の願い虚しく斬刑に処せられた。


枚方市には阿弖流為とモレと伝えらる塚があり、洛外にある田村麻呂本願と伝わる清水寺にも、二人の碑を探すことができる。


今から遡ること800年。

源義経は奥州藤原氏の寝返りにより衣川の地に露と消え、奥州藤原氏も鎌倉幕府へ思い届かず滅びの道を辿ることとなる。


奥州藤原氏が栄華を誇った時代、京都平安京10万人と同じ規模の人口を要したこの地周辺の様子は、今となっては知る由もない。

僅かに隣接する平泉中尊寺と毛越寺に、微かな面影を感じるのみだ。


「袂より落つる涙は陸奥の

     衣川とぞ言うべかりけり」


朝廷との幾多の争いの地となった衣川を偲ぶ歌は、奇しくも未来の予言の如く、鎌倉幕府との争いの場になる。


ホテルの部屋より衣川の雫を育む奥羽の山々を望む。


その駿馬が駆けるがごとく稜線は、沈みゆく陽の翳りを浴び、しだいに漆黒の闇に包まれていく。


やがて、現れる天の川をよぎるのは、真夏の夜の夢を儚む雫のように涙のように流れる星屑と言うべかりけり。