おもいがけず長い間更新が滞ってしまった。このまま放置モードにしてしまおうかとも考えたが、それではいままでお付き合いくださった少数ではあるが親密な読者の方々にあまりに失礼であると思い直した。
この間、このブログを派生させる元となった<マルコおいちゃんのヤダヤダ日記>(後に<丸幸亭冷屁斎老人独言日録>と改名)も放置モードにしてしまった。
ありていにいえば、わたしはもうシナに関わりたくないのである。
それはこのブログ紹介に最初から述べておいたとおりである。ちなみにそれを引用しておこう。
「シナには関わりたくない。シナはないものとして気楽に生活を送りたい。だがそれもかなわぬ。シナが気がかりな悪夢のように黒い影を世界中に広げているからだ。
そこで、いやいやながらシナについていささかの考察と対策を考えたい。シナという病につける薬を提供したいという壮大な試みを良しとされよ。」
ということであったのであるが、いよいよ堪忍がならなくなったのだ。
わたしは元来が飽きっぽい性格で学問をはじめとして持続する根気が必要なものには一切向いていない。だからこのブログでも中途で放棄したテーマが死屍累々として横たわっていること皆様ご承知のとおりである。
(なお<シナの変容>シリーズについては未だ再録していない分がイザにはある。興味をお持ちの方はこちらのをほうでご覧いただきたい。)
北京五輪をめぐっての大騒ぎにも辟易した。シナにとってはルサンチマン祭ともいうべき百年の恩讐を晴らすべき一大ページェントであったのだろうが、はたしてその前後にはわたしの知るすべてのシナ人諸君はそのナショナリズムを大いに高揚させていた。
さてその後はどうなってしまったのか?
やってきたのは、シナより悪質な世界金融資本の大芝居であった。彼ら(シナという主体と、シナを客体とするもの含めて)はそれでもまだ「シナという病」を更新させようと躍起になっているように見える。
とすると問題はシナばかりではなく、それをひとつの症状とする病んだ世界そのものであろう。
わたしはそのことが三月はじめ以来気にかかって仕方がなかった。それが<シナの変容>というシリーズを始めた主な理由であった。シナには変わって欲しいという祈りにも似た気持ちでいたのである。
シナとはひとつの病であること何度も述べたとおりであるが、それよりもっと深刻な病状に世界は侵されているようである。
だから相対的にシナへの関心が低下するのも止むを得まい。
しかしとはいえ、わたしはその深い病をどうこうしようとは思わない。ただしばらくは身を引いて考え直してみたくなったのだ。
<シナの変容>を予知しようとしながら結果としては「わたし」が変容してしまったのだ。
この変容した「わたし」がいつの日かまた<シナにつける薬>のような身の程をわきまえない発語をする日が来るのであろうか?
ただ成り行きを見守るだけである。
読者諸兄諸嬢のご健康とご発展を祈りながら、とりあえずの別れの言葉としたい。
いままでご支援いただきありがとうございました。ではまた会う日までしばし、さようなら。
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