1987年夏に西双版納(シーサンバンナ)を旅行した際、フェリーボートでミャンマー国境に近い村まで行きました。そのボートの上で、香港から来ていた20歳前後の男女6~7人の若者のグループと知り合いになりました。向こうから「日本人ですか」と英語で話しかけてきてくれたのです。
私は呉さん(英名アイリス)という女の子と様々なことを話ました。そしてその船を降りるときアドレスを交換しました。
1989年の冬、呉さんから、「友人とそのお母さんとともに日本に旅行に行く」という便りが届きました。私は結婚したばかりでしたが、家内とともに家で彼らをもてなすことにしました。3人の20歳過ぎの女性 呉さん、孫さん、林さん、そして林さんのお母さんが我が家を訪問してくれました。私たちはお好み焼きを彼らに食べてもらいました。
当時北京大使館の二等書記官だった垂さんと毎年のように夏に一緒に中国旅行をしていましたが、1989年は天安門事件の影響で断念していました。翌1990年、少し中国も落ち着いたところで、香港経由で北京を訪れることにしました。私は、呉さん、孫さん、林さんに香港で会えるかどうかを聞きました。彼女らは「楽しみに待っている」と返事をくれました。
その時垂さんは次のようなことを私に話してくれました。
中国人が信じているのは人間関係である。政治や行政を信じていない。周りの人を内の人と外の人に分けて考えている。ひとたび友人(内の人)になると家族同様にその人のことを考える。そして、家族と思う友人が遠方から訪ねてくるとなると、自分の持っている全てを投げだしてももてなそうとする。
日本には 「親しき仲にも礼儀あり」 という言葉がある。たとえ親戚であっても友人であっても世話になりっぱなしで平気だと常識がないと思われる。しかし中国人は違う。彼らが示す好意は遠慮せずに受け入れるべきものなのだ。そうでないと逆に「水くさい奴」とがっかりされる。受け入れた上で、次の機会にお返しできる範囲で返せばいい。
中国人は、自宅に招くかどうかで相手をどのくらい信用しているかがわかる。自宅に招くということは、ある一線を越えて 家族同然の遠慮なしの関係になったと考えていることになる。
これまでの経緯から、あの子たちはお母さんを含めて谷井さんのことを信頼し、随分気に入っている。しかも、谷井さんの方が先に家に招いてごちそうしている。今回の香港訪問では、彼女らは一家をあげて谷井さんをもてなすに違いない。谷井さんは遠慮してはいけない。彼らの懐に飛び込み甘え切ったらいい。その経験をした人だけが中国人気質を理解できる。とてもいいチャンスだ。
私が香港・啓徳空港に着いた時、彼女たちは10数人で出迎えてくれました。そして予約してあるホテルをキャンセルし、1週間林さんの家のお世話になるように私に勧めました。呉さんのボーイフレンドであるアウ君が運転する車で新界の元朗にある林さんの家に行き、林さんのお母さんがつくった家庭料理をふるまってもらいました。香港でのホームステイが始まりまったのです。
次の日から、香港の若者と同じパターンで生活することになりました。朝7時前に起きて身支度を整え、林さんとその兄弟と一緒に元朗のバスターミナルへ行く。そこの屋台でお粥を食べた後、中距離バスに乗り込み小1時間かけて九龍の中心街へ向かう。そこでひとまず解散し、彼らは会社へ向かい、私は香港中を歩き回り始める。夕方5時半、再び九龍で待ち合わせて元朗へ帰る。夜になると呉さん、孫さん他みんな集まってきて一日のことを色々話をする。週末には、まだ壊される前の九龍城の中へ入ったり、沿岸部をドライブしたりしました。一族をあげて歓迎してもらいました。
毎年のように中国・香港を訪れていた当時の私の旅の目的は、「町を歩き 人と出会う」ことにあったように今になって思います。この1990年の香港訪問は、その私の思いを200%満足させるものでした。垂さんが話してくれた中国人気質を、とても濃い経験として理解することができました。私は林家の息子として扱ってもらいました。出会ったみんなと義兄弟になっていたのです。(その後20数年 この付き合いは続いています)
私たちは様々なことを話し合いました。
一般的な中国人香港人にとって、日本は評価に値する国だが、歴史的なこともあり決して好きな国ではない。一方でアジアの大国どうしとして理解し合わなければならない関係である。だから、日本語や日本文化を学ぼうとする人も多い。あなただから話すのだが、私たち中国人の思いは複雑だ。 ・・・そんな彼らの率直な感情が伝わってきました。
私はこのとき、「いつか海外で日本語を教えてみたい」と明確に思いました。
REX派遣4年前の夏でした。



