私と中国台湾とのご縁について 少し思い出話を聞いてください
高校、大学を通じての友人に、とてもやんちゃでユーモアがあり、スポーツも万能で頭の回転も速い、垂秀夫(たるみひでお)さんという魅力的な男がいました。
(母校 天王寺高校で講演2004年)
大学時代 京都の下宿で将来のことを語り合ったとき、彼は「外交官になって国際舞台で仕事をしたい」、私は「高校の化学の先生になって人づくりをしたい」そんな夢を話し合いました。私たちは、もし互いの目標がかなったら、彼は「全ての海外赴任先に私を招待する」、私は「彼の海外での友人の全てを大阪で接待する」、そんな約束を交わしました。
大学を卒業し、彼はキャリア外交官として外務省中国課に、私は母校 天王寺高校の化学の先生になりました。そして下宿で交わした約束を、その後の30年間忠実に実行することとなりました。
(香港1986年)
垂さんが、南京大学やカリフォルニア大学への外務省からの国費留学生だったころ、私たちは、お金もなく、大した肩書もないペイペイでしたが、若さと、体力と、時間がある 素敵な時代でした。私たちはリュックをかついで中国各地やアメリカ西海岸を一緒に旅行しました。私たちは行く先々で、その日経験したことについて、そして世界の中の日本について、熱のこもった議論をしました。私はこの時代の未熟な自分たちをとても懐かしく感じます。
(広州1987年)
垂さんの友人の中国やアメリカの留学生や、海外の若き外交官が大阪に来た折には、約束通り私が大阪を案内し食事を振舞いました。やがて垂さんが、北京大使館、香港総領事館、交流協会台北事務所、それから外務省本省での役職を歴任するうちに、大阪まで私を訪ねて来る 彼の友人たちはビッグネームになっていきました。大学教授、国会議員、大物外交官、有名ジャーナリストなど、お断りなしでは お名前やお写真を載せることができない、そんな人たちが多くなりました。
(長城1990年)
そして2010年8月現在、垂さんは 外務省 中国モンゴル課長として、アジア外交の中心人物の一人として活躍しています。
(平壌 拉致家族帰国 2004年)
上の写真は2004年小泉総理が拉致家族を北朝鮮から帰国させたときの平壌空港の写真です。全国紙全ての一面に掲載されたものなので記憶に残っている方も多いと思います。このとき拉致家族の無事を確認し 彼らを保護するチームのリーダーをしていたのが垂さんです(右下に写っています)。また教育関係の例としては、日本中の学校に「日中21世紀交流事業」の通知文が毎年届いていると思います。この発信者も外務省中国モンゴル課長さんです。
私がREX海外派遣を希望するようになったのは、20歳台に中国・台湾とのこのようなご縁があったからです。当時、アジア各国で出会う人たちには、日本の経済力に尊敬と嫉妬の思いが混ざっていました。また、戦争時の日本の振る舞いが昨日のことのように非難されていました。私は世界と日本について考えました。世界と日本のために私に何ができるだろうと考え始めました。





