●我が母、心臓バイパス手術後闘病記24,25日目~大部屋へ戻り、よく眠り理由は?~ある日わたしが『出前一丁』ではなくて、『チャルメラ』を選んだ理由。

 

末男ルコ「母の話、食の話題」

 

 

4月12日(金)手術後24日目

 

午後7時分の面会

 

母のスペースへ入ると、点滴を吊るす器具が置いてあった。

(また何か点滴が始まるのか?)と、鼻チューブもなかなか外れないこともあり、看護士に確かめようとナースコール。

この日の母は眠気もあってか、やや元気がない。

と言いますか、前日から面会に来た時もけっこう眠っている。

看護士は、「先生も眠剤が残っているがやろうかと言ってましたけど」と、しかしもちろん断言はしない。

わたしは、大手術の後3週間を超え、しかもいろいろありながらの期間だっただけに、疲れも出てきているのかなと想像している。

そして点滴については、「午後のリハビリの時にまためまいがあったので、めまい用のお薬を点滴してました」とのこと。

まだめまいからは解放されないのか。

 

そう言えば今まであまり触れてなかったのだが、転倒して頭部を打撲した際、当然ながら「胴部だけ」だったわけではなく、脚腰も打っているわけで、その痛みもなかなか去ってくれない。

車椅子へ乗っている時も痛くなるし、リハビリにも差し障りがあるだろう。

感染、そして転倒は、けっこうな治療の妨げになってきている。

 

4月13日(土)手術後25日目

 

午後12時の面会

 

入室するなり母の「飛行機かっこえい」と言うかなりの大声が聞こえる。

同部屋の患者さんには迷惑だろうが、母の大声が聞こえるとひとまず安堵する。

小さな声しか出せない母という状況は一切望まない。

「大声を出す母」を「もっと声を小さく」となだめるのがわたしの役割なのだ。

この時間は軽口も叩き、前の2日間よりもずっと元気だ。

ちょうど昼食が出ていたが、そのメニューは、

 

・軟飯50g

・麻婆豆腐風

・煮浸し

・ブロッコリー甘酢あん

・『テルミール ミニ』

 

というものだったが、なぜか軟飯には手をつけない、煮浸しを少し食べ、麻婆豆腐風は一口でバツ印。

しかし以外にも、ブロッコリー甘酢あんなるものをすべて食べた。

見たところ、ブロッコリーを細かく刻んで甘酢あんと共に食べる料理だが、やや黄色の「甘酢あん」に何を使っているかはよく分からなかった。

『テルミール ミニ』はすべて飲んだ。

こうして口に合うものばかりだと栄養もどんどんついていくのだが。

 

鼻チューブは付いているが、この時間にめまいは訴えなかった。

ただ、10日に大部屋へ戻ってから、「よく眠る」ことを看護士もすぐ話題にする。

この時も確かに食後はすぐ眠気が勝ってしまった。

まだ睡眠剤は使っているということだが、半分に減らしたとも言った。

要するに入院中はずっと睡眠剤を使っているわけで、そうしたものの影響か、それともやや長引き始めた入院生活の疲れか、まだ分からない。

 

 

 

 

・・・

 

日清食品が『出前一丁』を発売したのは1968年の2月なのですね。

などと書いているのは、夕食にまたインスタントラーメン&ニラ&ウインナーにしようと思ってラーメンコーナーへ行くと、まあだいたい袋麺は「5食入り」で売っているのだけれど、『出前一丁』がやけに高いのです。

ごまラー油にはそんな価値があるのかな?

というわけで、この度は『出前一丁』ではなくて、『チャルメラ』を選びました。

 

●我が母、心臓バイパス手術後闘病記24~25日目、一旦は外されていた1ℓ酸素鼻チューブを中心に、4月12日までの経過を振り返る。

 

末尾ルコ「母の話、健康医療の話題」

 

4月11日(木)手術後24日目

 

午後7時分の面会

 

鼻チューブ付いている。

昼間よりはすっきりと目が覚めており、普通の会話をしばしする。

顔色もすこぶるよい。

話している間に眠気が来たようで、目をつぶり、夢うつつという感じの話し方になる。

「夕食はけっこう食べた」と母は言うのだが、これはやや当てにならない証言だ。

しかし『テルミール ミニ』や普通のご飯などの変化により、食事時間に対しる嫌悪感は薄らいできつつある気がする。

 

現時点での大きな課題は、

・鼻チューブをいつ本格的に外せるか。(血中酸素濃度レベルがいつ安定するか)

・体力回復と、自力歩行がいつ可能になるか。

 

もちろんその他、様々な突発事などについても想定しておかねばならない。

 

4月12日(金)手術後25日目

 

午後12時20分の面会

 

やはり鼻チューブは付いている。

ちょうど昼食が済んだばかりで、看護士によれば「4割くらい食べたかな」。

まあわたしの見たところ、数日前までは1割も食べられない印象だったので、ましになってきたのだと思う。

特に『テルミール ミニ』さえ飲んでおれば、常に一定以上のカロリーと栄養は摂取できるはずだ。

車椅子へ座っていた母が「腰が痛い」と訴え始める。

もともと脚腰痛がかなり酷いのだが、例の「店頭事件」で頭部だけでなく、脚腰も打ってしまっていた、シップはしてもらっているが、簡単に治るものでもない。

 

さて、このところ酸素1の鼻チューブがなかなか外れないのが気になるが、4月12日までの経過を簡単に振り返ってみよう。

 

3月17日(日)心臓バイパス手術(純金休)、そのままICUへ。

3月22日(金)口へのチューブが外れ、会話が可能となる。

3月23日(土)酸素マスクが外される。

3月24日(日)HCUへ移る。

3月25日(月)一般病棟へ。

3月26日(火)経口食事開始。車椅子から転倒も、大事に至らず。

3月30日(土)「寂しい」と騒ぎ、詰め所で一晩過ごす。

4月1日(月)夜、突如嘔吐。

4月2日(火)鼻の酸素チューブ外される。

4月3日(水)感染症により、専用の個室へ。4月5日(金)転倒し、頭部など打撲。CT検査では異常なし。

4月6日(土)めまいを訴え、またしてもCT検査。異常なしだが、めまい用の点滴2日間。

4月7日(日)鼻チューブ(酸素1)再開。「きんぴらミキサー」を口にして、嘔吐。

4月9日(火)昼には鼻チューブ外されていたが、夜には再開。

4月10日(水)「感染」が解除され、大部屋へ。午前中は鼻チューブ付けてなかったという証言もあるが、午後には装着。

そして、4月12日へ至っている。

 

こうして見ると、鼻チューブが外された翌日の4月3日に感染が発覚して個室へ移り、その後頭部打撲やめまい、そして広い場所でのリハビリが不可能になったなど、そうしたことでかなり影響が出ているのは明らかだ。

 

●〈「言葉」による革命〉・・・・「戦いの最前線」は、「家庭」・「カフェ」、そして「あなた」~「幸福観」の根源をさらにさらに深く探求していこう。

 

※2109年4月19日配信 末尾ルコ メルマガ(有料)より抜粋。

 

●〈「言葉」による革命〉・・・・「戦いの最前線」は、「家庭」・「カフェ」、そして「あなた」~「幸福観」の根源をさらにさらに深く探求してこう。

 

 

 

もちろん、「幸福」について考えるのが極めて難しいのはよく分かります。

世界中、そして人類史上誰一人「同じ幸福観」を持った人はいないのです。

そして厳密にいえば、誰かに誰かの幸福感を強いることはできない。

分かっています。

人は公共の福祉に反しない限り、自由に生きる権利がある。

という定義もあまりにシンプルで様々な例外が出てくるのでしょうが、でも原則はこの考えでいいと思います。

だから日がな一日パチンコで時間を潰して幸福ならそれでいいし、ゲームを延々と続けて幸福ならそれでいい、何かといえば集まってワイワイやるのが幸福だという人も多いでしょうし、インスタ映えを狙ったSNS投稿に多くの「いいね」をもらって幸福ならそれでいい。

けれど本当は、(ちょっと違うんじゃない?)どころではなく、「全然違うぞ!」というのがわたしの立場です。

 

(続きは、有料メルマガでお願いします)

 

●我が母、心臓バイパス手術後闘病記~23~24日目、夜訪ねてきた看護士との会話。4月10日が誕生日だった淀川長治の凄さの一つ。

 

末男ルコ「母の話、映画の話題」

 

4月10日(水)手術後23日目

 

午後7時の面会

 

この日の朝食は次のようなものだった。

 

全粥110g

・ジャガイモみそ汁 ミツバ

・卵豆腐

・煮浸し

・のり佃煮

・牛乳

 

朝食時間は面会時間よりずっと前で、夕食時間は面会時間に重なっているけれど、わたしは行くのは通常その時間より遅い。

ゆえに母が食事する様子は昼食時しか見ないのだけれど、実のところ家では朝と晩の2食というパターンだったので、入院中昼に最も食欲が沸かないのは致し方ないところはある。

 

この晩も母は鼻チューブを装着していた。

ももクロのDVDを観ていると、40から50歳の間くらいの看護士が母のスペースにやってきた。

「久しぶりやねえ。元気になった?」と声をかける。

母の方も、「久しぶり~、どうしよった?」と彼女の手を握る。

「なかなか頑張りゆうねえ。もうちょっとやきねえ」と。

なるほど、こうして困難な心臓バイパス手術後入院生活の中でも母なりの人間関係を築いているわけか。

だからロビーで会話した若い看護士が「お母さんに、元気もらってます」と言ったのもあながちお世辞ではない。

「寂しい!」と大声を出したり、転倒して頭を打ったり、突然嘔吐したり、「めまいがする」と大騒ぎを起したりと、病院スタッフにとっては厄介な患者である反面、分別臭さも説教臭さも全く感じさせない、自由な雰囲気を感じてくれているのかもしれない。

「また来てよ」と母はその看護士に手を振り、看護士も「また来るきねえ」と。

その明らかに仕事を超えたやりとりを見ながら、わたしの心に暖かいものが流れてきたのは言うまでもない。

 

4月11日(木)手術後24日目

 

午後12時30分の面会

 

前夜の面会時、病室のテレビの傍に入院後初めての「請求書」が来ていたのだが、細かな話になるのでこれはまた後日としよう。

この日は母のスペースは入ると眠っており、同部屋の患者たちは昼食中だ。

母のテーブルには何もないが、看護士に尋ねると、「もうお昼は終わって、下げたようです」と。

えらく速く終わったものだが、母に尋ねると「けっこう食べた」とやや怪しい答え。

わたしが1階の窓口へ請求書の件で話をしに行き、病室へ戻るとぐっすり眠っている。

廊下ですれ違った看護士に様子を尋ねると、午前中にリハビリを頑張っていたという。

(ならば)と、ゆっくり眠ってもらいながら、わたしは一旦病院から出た。

この時間、鼻チューブは装着していた。

 

・・・

 

 

4月10日は、淀川長治さんの誕生日だった。

わたしは彼を、昭和の偉人の一人だと思っている。

蓮實重彦が語った「文学界に一人の淀川長治がいれば」という名言にその偉大さの一端が表れている。

人間としての凄み、美意識・・・ずっと語り継ぐべき、「日本人が誇るべき日本人」の一人だ。

淀川長治の凄いところの一つは、「映画を映画だけの世界に留まらせなかった」ところだ。

彼が嫌ったのが、「自分たちだけが映画を分かっている」と思い込んでいる人たちだったこと、現在の映画ファンにもよく理解していただきたい。

 

 

●山田姉妹へのメッセージ「映画的」

 

末尾ルコ「音楽の話題で、知性と感性を磨くレッスン」

 

(4月10日のメッセージです)

 

このお写真はですね、わたしはいくつかの映画史的傑作を想起するのです。敢えてタイトルは書きませんけれど(笑)。それにつけてもお二人のお写真、いつもフォトジェニックで多く映画的。音楽はもちろんのこと、様々な芸術を摂取し続けるお二人ならではのクオリティなのだと思います。RUKO

 

 

極限の愛、日常の愛、その言葉 2019年4月13日

 

あなたはでも

ただの女さ

ある意味

ただの小娘さ

憎む要素など

一つもない

 

 

極限の愛、日常の愛、その言葉 2019年4月14日

 

憎まなくてよかったと

よく似合うショートカットの

あなたと話して

つくづく思う

そうか、

髪を伸ばしたいのだね

 

極限の愛、日常の愛、その言葉 2019年4月15日

 

ならばぜひ見たいものだ

あなたの伸びた髪を

ぼくはまだそれを

見たことないから

 

 

極限の愛、日常の愛、その言葉 2019年4月16日

 

憎まなくてよかったと

よく似合うショートカットの

あなたと話して

つくづく思う

そうか、

髪を伸ばしたいのだね

 

ならばぜひ見たいものだ

あなたの伸びた髪を

ぼくはまだそれを

見たことないから