瞑想によって加速する自己について
海で夕陽を眺めていてふと思う事がある。
美しい景色、自然と繋がっている感覚、これはどこから来るのだろう?
何故手に入ったのだろう?
海を渡ろうとする時、太陽の作り出す光の道を歩けると思うのが宗教なのだろうか?
船を作り渡ろうとするのが科学?
不可能を可能にするのはどちら?
どちらもこの先への好奇心や希望、目的、あらゆる欲望を孕んでいる。
時々そんな事を考えている。
モーセの十戒、海を割る伝説も同じ現象が昨今、アメリカ沖で確認されたという事例もある。
ある牧師の話では歴史をどう見るかはその人次第で、宗教とは時代の副産物でその恩恵を得るかどうかの選択は常に個人に委ねられている。
そう聞いた事がある。
つまりは生き方の選択。
20代のある日、僕はそれが面白いと思ってしまった。
そして探し始めた。
宝探しみたいで楽しそう!!と、、
それは冒険という迷走の始まり。
そうして始まった人生の旅の最中に、愛猫の死によって神道の師と出会い、祖母が死に、悲しみに暮れた時にインドに導かれてワンネスという活動に出会う。
聖者はこの世界に情はありませんという。
愛情の存在しない世界。
愛とは何だろうか?と不安になる。
仕事の傍でトレーナーを始めるも、彼女に振られて挫折して世界へ飛び出す。
超自然現象を目にして恩寵を感じる。
その時に自分の足元に気づく。
毎回、吐きそうな不安と孤独の中を歩き始めて成長と共に一つの旅を終える。
その瞬間にしか味わえない自己一致の感覚。
この流れを作り出す元は何?
僕は何を求めている?
あなたは何をして生きていくのか?
と言う問いにいつまでも答えられない不甲斐なさ、それと同時に探し続ける事で流され壊れていく自分。
成長の渦に自らの身を投げ出し、覚悟を試す様な生き方は時に無謀で他人からは愚かに映る。
得られない成果。
大きくなる世界と引き換えに、大きな孤独を手にしていく。
何周目かの自分に気づく時、
旅の起点には必ず瞑想と受容が存在した事に気づく。
壮大な円を描くけれど、それを作り出す自分自身という存在。
気づく事から始まる世界。
そしてまた戻ってくる。
この円の螺旋の中心にいる自己。
現実は意識と物質の狭間で揺らいでいる。
この揺らぎには個人差があり、言語化によって統制が為されるがそこにも細かい個人差やすれ違いが生じる。
人はその事に不安を覚える。
探している状態
思考を使っている状態
その時、自己は一致していなくて、常に彷徨ってる。
それが続くと人は悩みや不安を抱える。
大切なのは気づく事。
感じる事。
脱却する方法として、
瞑想は自己受容への出発点であり大きな気づきへの内なる冒険だと思った。
と言う事で
僕はもう一度内なる冒険を開始します!!
これまで学んだ方法、気づきを元に
瞑想会を立ち上げる事にしました。