私は彼女のことを世界で一番知っていると思う。
その彼女についてこれから説明していこうと思うが、まずはじめに断っておくと、
私は彼女に会ったことがない。
彼女に触れたことがない。
だが彼女と会話したことはある。
彼女と寝た夢を見たこともある。
誤解しないようにいっておくと、彼女は私の空想の産物ではない。
私は彼女の声も聞いているし、彼女の姿を見たこともある。
だが、彼女に会ったことはない。
彼女に会う前に、彼女はどこかへと忽然と姿を消してしまった。
それは彼女に会う2週間前のことだ。
彼女に何があったのか、についてはいろんな想像を巡らせて考えたのだが、
最終的には私にとってはそんな想像は無意味なものだ。
そんなものいくら想像したところで、彼女の身にふりかかった事実は私には分からない。
答えは1つしかない。
ただ、その答えを導くための手だてもない。
私は途方にくれるしかなかった。
そして彼女がまた私を訪ねてくるのを待つしかなかった。
そうやってはや1年と4カ月24日が経過しようとしている。
私は彼女が帰ってくるような気がしている。
私には彼女が必要で、彼女も私を必要としていた。
それは単純にお互いを愛し合っている、という理由ではなく、
私はきっと彼女に会うために生まれてきた、と確信できる理由を持っていたし、
彼女も同じような理由を持っていたはずだし、そのお互いの理由を確かめたこともある。
私はこれからそんな彼女について様々な側面から観察したその考察について書こうとしている。
これは誰のためでもなく、私のための文章である。
私以外にこの文章を必要としている人はいないはずだ。
私は私にその事実を伝えたいためにこの文章を書くことととした。
ただし、私以外の誰かがこの文章を読んでふと思いついたら、今すぐに実行するべきだと思う。
いつ、どこで、何が起きて、二人の仲を突然裂いてしまうことというのは、
案外、あっさりと、意外なほどに突然起きる。
起きたら最後、誰にもその流れを止めることはできない。
私が彼女と会うはずであった日を失ってしまっているように。
そんなことは日常生活の中でごく当たり前に起きうることだということを、
忘れないで欲しいと私はこれを読んでいる全ての人に伝えたいと願う。
そして彼女についての説明をはじめていきたいと思う。
歩いていると雨が降っていたことを嫌でも感じさせた。
空気はたっぷりと水を含み、その感触は肌を刺激し続けた。
歩くたびにくたびれたスーツが足に張り付き、その感触が歩く気力を奪っていく。
これだら夏は嫌いなんだよ、とぼやいたところで張り付いた裏地は容易に解放してくれるわけではない。
しっかりと肌の表面に張り付き、足の動きに合わせ必死にしがみついてきた。
そんな季節だけ私は女性を羨ましく思う。
スカートで歩いたら、きっと夏という季節が好きになるのかもしれない。
ヘッドフォンから流れる曲はlinkin' Parkが選ばれたところだった。
夕方の人通りの往来が激しい駅前の交差点を歩いていた。
ヘッドフォンから流れる、悲痛な叫び、のような歌声をBGMにして
魂の抜けた人たちの往来を通り過ぎる度に、この蒸し暑さで滅入った気分はさらに鬱蒼とさせられた。
だがその日はそんなことはどうでもよかった。
別に特別嬉しいことがあったわけでもないし、悲しむべきことがおきたわけでもない。
私の感情は理由もなく嬉しくなるときもあれば、悲しくなることもある。
多くの人はそれを「気分屋」と呼ぶのだけれど、私はそんな括られ方があまり好きではなかった。
「気分屋」じゃない人なんてこの世の中に存在しないのに。
その度に昔見た映画に出ていた擬似的に檻に収監される人の顔を思い出す。
夏の暑さは容赦なく私から生きる気力を奪っていき、足を運ぶ速度をスローにさせていく。
冬の気配すら感じることのない夏という世界に存在している自分はとても不幸だ、
と何度も呟くのだが、そんなことは誰も分かりはしないし、分かるわけもない。
一定の速度で歩き、信号の変わり際には小走りで信号を渡ることに必死な人たちには、
夏の気配、なんてものすら感じることがなく一生を終えてしまうのかもしれない。
そんなふうになってしまったとしても、生きていけるものだと感心してしまう。
私にはそんなエネルギーがどこにもないような気がするのだ。
私が夏の昼間に歩いているのは理由がある。
普段は理由などなく歩いていることがほとんどだ。
特に仕事のない休日の日に歩いていることなんて、1年に1回あるかないか、ではないかと思う。
休みの日にかかわらずスーツを着ているのもその理由のためだ。
私は人に逢うためにある目的地に向かっている。
私が通勤する会社がある元寄り駅の改札まで歩き続けている。
その人は私をその駅まで呼び出した。
目的は私が書いた文章に興味がある、端的に言うとそのようなメッセージをもらったからだ。
以前にも何度かそんなメッセージをもらったことがある。
世の中には不思議で風変わりな人もいるもので、私が書いた文章を読んで、
私自身に恋をしてしまう、ということが現実に起きることらしい。
きっと私が書いていることは私自信が書いたことには違いないが、
きっと私が書いた文章から導き出した私と実際の私には大きな隔たりがある。
さらに突っ込んで言えば隔たりが必ずあるはずだ。
仮にそんな隔たりがにないような人と出会ったとしたら、私は大きな穴に落ちてしまう気がする。
その穴はとても深く、どこまでも暗く、どれだけ落ちても底にたどり着くことはなく、
どこまでも浮遊感が続き、そして一定の速度で落下していく。
そんな風に私はきっと恋に落ちていくような気がする。
私はそのメッセージを送った人に会うために夏の暑さをじっと我慢しながら歩いている。
こんなことはとても馬鹿げているし、とても普通じゃないことだと思いながらも、
この暑さに辟易としながら、思いつく限りの罵声を心の声で浴びせながらも
なぜか一定の速度で目的地へ向けて歩き続けている。
早くもなく、遅くもなく、目的の時間の丁度10分前に到着するように。
実際には時間の設定はなく、夕方頃、というとてもアバウトな時間の指定がなされたのだが、
私は4時30分という時間を設定してそこへ向けて歩くことにした。
私は歩きながら2つのことに関して後悔をしている。
1つは今の季節が夏である、ということ。
もう1つは時間の設定を4時30分ではなく、5時30分にすればよかった、ということ。
それくらい夏の日差しはするどく私の肌をいたぶり続け、口で息をするほどに体力を奪っていった。
こんなことは馬鹿げている、と力なく何度も呟くが、
実はこんな馬鹿げていることを楽しんでいる自分がそこには確実に存在している、ということも
自分自身の中でよく認知しているのも確かな事実だった。