whatever

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In the beginning is the Word, and the Word is with Me, and the Word is I. I am with Word in the beginning.

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最近、いろんな方から太ったと言われて、

私も日々進化(または退化)、いや変化をしているんだな、と

実感している毎日を送っております。


そういえばこんな風に文字を書くことは非常に久しぶりで、

昔、毎日のように書いていたころは、

一体何をそんなに書くことがあったのだろう、と

不思議で仕方がありません。

要は私はそんなに暇ではなくなったのかもしれません。


と言っても、別に朝から晩まで

汗水たらしまくって仕事をしているわけでもないし、

ただ吐き出す言葉がすくなくなったのは事実ではないか、と思うのです。


たとえば昔なら何を見ても、何を読んでも、

感想というものを持っていたのですが、

そんなものを書きとめておいても何もならないし、

別になんの価値も生み出さないし、

まあ、割と早くからこうやって書くことを続けているので、

その行為自体に飽きてしまっている、というのが

きっと正直なところなのだろうと思います。


何か生きている上で得られる感動というものが

だんだん薄れていっているような気がするのです。

昔なら、たとえばテレビを見るにしても、

本を読むにしても、漫画を読むにしても、映画を見るにしても、

もっとどきどきわくわく(死語)していたような気がするのですが、

最近では何を読んでもあまり感動しなくなってしまいました。

そのうち女性とデートしても、食事をしても、

キスしてもセックスしても無感動になってしまう(絶対ないな)、

そんな日がやってきてしまうのではないか、と

空恐ろしいことを考えてしまうことも1年に2回くらいはあるのです。


まあ、私は私の好きなように生きるとして、

気が向いたときに、ここにきて、

誰にも読まれることのない文章をかいて、


やっぱり私、飽きやすいんですね。

すぐ飽きてしまうんです。

すぐ冷めてしまう、というか、

より強い刺激を求めているというか。

そういう意味では、時折違う人種と接することのできる

今の仕事は私にはとても向いていると思います。


これが田舎の支店の担当だったとしたら、

ひきこもって速攻会社に行きたくなくなる気がします。

まあ、それなりの刺激はあるのでしょうけどね。

刺激を得るには原資と教養と知識と健康な肉体が必要です。

そろそろ健康管理という嫌いな言葉が脳裏をよぎっております。


最近、しきりに上司から冷たい人間だと言われます。

やっぱり見る人が見ると、本質が見えてしまうのでしょうか。

いらないものが多すぎるとか、

使えないものは捨ててしまえばいいだとか、


そういえばワールドカップやってますね。

年々レベルが低下しておりますが、今年はひどいですね。

勝てば官軍なのでしょうけど。


月末からまた忙しくなるようです。

そう言えば久しぶりにお酒を飲んで記憶がなくなりました。

記憶がないのに、なぜか写真が残されていて、

ものすごい笑顔でカメラにピースをしておりました。

お酒を飲んで記憶をなくすことの恐ろしさを

再び身をもって体感いたしました。


それでは良いお年を。



いつからだろう、君のことを考えなくなったのは

いつからだろう、君の存在が消えてしまったのは

あれほど愛して止まなかった君が

僕の中からすっかり消えてしまって、

そしたら世界が灰色になってた


でも気付いたら世界には色が戻っていて、

時計の針は動き出して、あわただしく回りはじめる

それが悲しいと気付かなかったのはなぜだろう

それとも悲しいと気付かないふりをしていたのだろうか

それすら分からなくなってしまった僕は

元通りの僕に戻ることはできるのだろうか


二度と取り戻せないものがあって、

それが世界でたった1つのものであって、

それが本当に僕に必要だったとしたら、

僕はいったいこれからどうやって生きていけばいいんだろう

そんな世界を僕はどうやって歩いていけばいいんだろう

そんなこと、誰にも分かりはしないのに


僕のことを世界で一番知っていた君は

もうこの世界のどこにもいないと思っていたけれど、

ある日、どこかで巡り会うときがきたら、

いったい僕は君になんて言えばいいんだろう

どんな顔して君に向き合えばいいんだろう

そんなこと考えても、どうしようもないかもしれないけれど、

こんなこと考えてしまうくらい、僕にとっては

この世界に光を見つけられなくて

この道が何処に続いているのか分からなくて、

ただ彷徨っているだけの漂流者だとしたら、

僕はいったいどこへ向かえばいいんだろう



何年ぶりかに届いたメールに書かれた文字は

あまりにも短く、あまりにも悲惨で、あまりにも悲劇としか言いようがなかった。

私の中で未だに彼女の存在は死んだものとして

そこに横たわっており、きっとこの先もそうなってしまわざるを得ない、

そんなメールなら、いっそのこと目にしなければよかったのかもしれない。


偶然の出会いによって、目にするはずだったメールに目が届かず、

結局、すれ違ってしまった恋人たちはどのくらいいるのだろう。

昂る女性の気持ちを汲み取れなかった男の情けなさほど、みっともないものはない。


2か月に1度のペースで海外へ飛び立った今年の1年は、

充実していたといえばしていたのだけれど、

それだけ深く組織に足を踏み込んでしまったばっかりに、

人間が多く集まる集合体の暗部を目撃するという、

皮肉な結末にもなってしまったことには間違いない。

人は人を妬み、嫉み、嫌しみ、憎しみ、卑下する。

人の幸せを喜ぶことができるのは、自分が満たされているからであって、

人の幸せを手放しに喜ぶことができるのは、自分が最も幸せな人であるからであって、

もしくは

自分の不幸にきがついていない人であるともいえるかもしれない。


1年という年月は日に日に速さを増し、加速度をつけてやってきて、

私の眼前をあっと言う間もなく通り過ぎて行ってしまう。

私には何かを期待することも、何かを望むことも、何かを欲することもないけれど、

無意識の中では、人に多くを求めているのかもしれない。

私の中で保っていたバランスが時々崩壊して、そういうときには

必ずといっていいほど、何か悪いことが起きてしまう。

もしくはそれはCoincidenceであって、

何かおこるべくしておきること、のようなものとして

舞台の脚本にかかれた装置や台詞や展開のものとして、

確実に待ちかまえているものなのかもしれない。



上空1万2千メートルから眺める太平洋は私が想像していたよりも、遥か遠くまで広がっていた。
こんなにも海という液体がどこまでも広がっていると、知識としては頭に入っていた、つもりだった。
だが、実際に30センチ四方にもみたない窓から見下ろす景色は、私に強く訴えかけてくる。
たかが網膜に映った反射した光が描き出す像、などという斜に構えた感想を鼻で笑うように。
君はまだ若い、そんな感想を持ちたがる気持ちは理解するが、まだまだ矮小なんだよ。
私はそんな宙からの声に思わず頬が緩み、声のない笑いを発してしまった。
私は人間が陸上から到達できる遥か上空に今、存在していて、そこから見る景色に言葉を失う。
そして自己の傲慢さと浅はかさを知ることにより、声無くして大笑いしている。

入国ゲートは審査を受ける人たちで長い行列を作るほどの混雑な状況になっていた。
9月の夏休み明けた状況であるにもかかわらず、これだけの人が入国ゲートに並んでいることに、
私は不思議さを感じずには得なかったのだが、ある意味ではこれだけ人が自国から異国へと
行き来することのハードルが大きく下がった、ということに少し喜びを感じていた。
私にとって自分の国籍を一番感じさせるときは、パスポートを手にし、入国ゲートにて移民局員と対峙するときだ。

作文の時間が好きだった。
自分が思い描くことを、文章として作文用紙に書き、形になっていく過程が目の前で進められていく、
その作業性と、出来上がった文章を読み返し、自分の頭の中にあるイメージが文字、として
展開されていく様子が私は好きだった。
当時はそんなふうに理屈をつけて「なぜ好きなのか」なんてことを考えたことはなかった。
今から考えてみればそんな理由で好きだったのかもしれない、というのは、
あくまでも今ここにいる私の推測でしかない。
そういう意味では、私は過去から未来へと続く過程、なのかもしれないが、
過去の私と今の私が同一である、と根拠づけるものというものは、私の意識や記憶でしかなく、
なんと希薄なものなのだろう、と考えてしまう。
人が写真やビデオに自分の姿を残すのは、未来の自分に対する墓標なのかもしれない。
それだけ人は自分の存在にすら、潜在的には希薄な認識しか持ち合わせていないのだ。
私はだから写真やビデオで撮影されることが嫌いなのかもしれない。
今の自分が切り取られ、別の世界に閉じ込められたままでいることになど、耐えられるものではない。

四角の升目に文字を1つづつ埋めていく。
文字は丁寧に書くのだが、整えられた升目に対し、いびつで不揃いな自分の文字が嫌いだった。
升目の中に納まるには不釣り合いな自分の文字を嫌っていた時期があった。
不均衡な升目と文字は、似つかわしくないカップルのように並んで立ち、私に対峙する。
美しい娘と不細工な私、あり得ないとりあわせ、私は不釣り合いな関係性を破壊する。
消しゴムで自分の文字を消し、升目だけをきれいに残す。
薄ら鉛筆の筆跡が残った真っ白な紙と升目を眺めていると、とても気分がよくなる。
紙上の均衡がこれで保たれた。均整のとれていない文字が書かれるのは、
何も書かれていない真っ白な紙の上が一番お似合いだ。

パソコンやワープロで文字を書くと、決められた文字列が並んでいく。
そこには文字の個性などというものはなく、書いた文字が表わす個性というものが消滅していく。
誰が書いても同じ文字、同じ様相、同じ姿、同じ形。
違いが出るのはコードを紡いだ行く先にある文章という1つの塊でしか残らない。
その残酷なまでの透明性と均衡、そして平等な世界が私が心地よく生活できる場所だ。
さようなら升目の描かれた作文用紙、そして鉛筆と消しゴム。
私にはあなたたちという道具はもう必要ない世界に移動してしまったようです。
手が黒くなることも、指が痛くなることもない、電気信号によるコードによって、統制がとれた世界。
文字で誰かがどう、などと評価したり、判断できる世界からお先に失礼します。

上空1万2千メートルから眺める景色は雲と空と時折変化する太陽の光。
鳥もいない、もちろん動物もいない。おそらくこの階層に存在する生命体は人間くらいなものでしょう。
いや、飛行機には様々な動物を格納して飛行しているわけだからほかの生命体もいるわけだ。
ノアの方舟。遥か地上で発生する大型地震で倒壊するビルの下敷きになる人々を思い、
私はその遥か上空で惰眠をむさぼる。気圧が低い状態で飲むお酒がまわっているせいかもしれない。
逃げまどう人、混乱する人、泣き叫ぶ人、凶器を手に凶行に走る人、錯乱する人、
もしかしたら喜ぶ人、幸福を感じる人、なんてのもいるかもしれない。
地震が起きれば皆が悲しむわけではない。世界はすでに1つではないのだ。
人類が滅亡する、という事実を聞けば皆が悲しみ打ちひしがれるわけではない。
安堵する人、歓喜する人も世の中にはきっと存在する。
今の世界をポジティブに生きている人たちの価値が崩壊することは、
今の世界をネガティブに生きている人たちにとっては朗報なのだ。
生きることにしがみついても、生きることを放棄していても、
人類の滅亡は平等に訪れ、そして平等に終わりのときは訪れる。
さて、私は無事に飛行機から着陸することはできるのだろうか。
世界中の滑走路は崩壊し、世界を滑空する飛行機の情報を統制し、管理する人はもうすでにいない。
こういう状況下に置かれたパイロットは一体どのような行動に走るのだろう。
乗客はパイロットを選択することはできない。
一見すると当たり前かもしれないけれど、ある意味では不公平な気がするが、
そんなことを言ったら、パイロットは乗客を選択できない。
選択権を持つのはほんの一握りの既得権を持ち、多くの富を所有するものたちだけ。
世界はそんなに悪くない。ただ、これ以上よくなることもない、と思ったら、
所有する富を、多くを持つ人から、強奪するような世界はもう終わってしまったとしたら、
あとは抑圧された閉鎖的な世界が待っているだけだとしたら、
自我を捨てて、システムに飲み込まれる以外、はたしてどうやって生きていけばいいのだろうか。
私はパイロットの所に行き、こう耳打ちするだろう。
さあ、理性を捨て、その責務を捨て、命という燃料が尽きるまで、この箱にはで、
欲望の限りを尽くそうじゃないか、と。

死を前にした人間はいかに自我を崩壊させ、自分を客観視し、
直接的に肉体や精神に働きかける刺激を得ることにより、
その眼前に立ちはだかる死を忘れることができるのか、を考える。
人間の可能性を信じるか、人間の可能性を放棄するかは、
はたしてその人間の先天的な良識や見識などというものだけで測れるのだろうか。
人は生まれながらにして遺伝子という鎖を持ち、
そして環境という部屋の中で造られ、
そして形成された自我という剣を持ち戦うとしたら、
結局のところ、人間に個々のなんたるかを与えたのは誰かなどという問いに
答えることのできるものなの、この世の中にあるのだろうか。
結局、そんなものは一握りの人間が構築した理想的なシステムの中で
そのシステムを安定的に運営するための原理原則に外れたものが悪とされるだけのことであって、
万や億にも存在する個々の葛藤や争いを収める理由にも解決にもならない。
混沌とした世の中の中で欲望の達成のために争い、そして進化を繰り返すことの結末は、
結局、無でしかないとしたら、その過程の中で生きている私は
一体何者なのだろうか。

と頭の中が無駄な禅問答で埋め尽くされたところで、
空腹のシグナルが発し、夕飯の支度へと取りかかる。

なぜこの仕事をしているの?

お金を稼ぐため


なぜお金が必要なの?

学校に通いたいから


なぜ学校に通いたいの?

定職につきたいから


なぜ定職につきたいの?

いつまでもこの仕事をしているわけにはいかないから。


学校で何を勉強するの?

パソコンのプログラミングの授業


なぜそれを勉強しようと思ったの?

特に理由はないけど、なんでだろう


将来の夢は?

子供が欲しいかな


何人子供が欲しい?

2人


なぜ2人欲しいの?

1人だと寂しいから


そんなに忙しかったら彼氏もできないんじゃない?

いたけど別れたの


なぜ別れたの?

私のことを理解しようとしなかったから


なぜ理解しようとしていないと思ったの?

私が伝えたいと思っていたことを、聞きもしないから


なぜ理解してほしかったの?

それは、好きだから、じゃない


彼氏と別れて寂しかった?

すごく寂しかったよ


まだ後悔してる?

もう後悔はしていないかな


次はどんな人と付き合いたい?

優しい人かな


あなたにとって優しい人ってどんな人?

私のことを理解しようとしてくれる人


理解しようとするだけでいいの?

理解することはできないじゃない


なぜ理解することはできないと思うの?

男と女だもの



交通事故で入院をよぎなくされ、

学校を休学し、復学するために1日12時間、月の休みは4日で

働く彼女には悲壮感というものはまったくなく、

大変だ、とか、疲れた、とか忙しい、とかいいながら、

なぜだか分からないが幸せな雰囲気が漂っていた。


ただ漠然と生きるというのは難しい。

難しい、というよりは、そんなことは不可能なのかもしれない。


空港のチェックインカウンターで4人の中年の女性がいた。

私はああいう集団がとても嫌いだ。

ブランド品の鞄をさげ、手に余りあるお土産をかかえ、

撮影した写真を並べ、下品な笑い声を聞いていると、

なんともいえない暗欝な気分にさせられる。


結局、何をしても満たされない自分がいる。

結局、何をしても満足する自分もいる。


また知らない場所を歩いて、

見たこともないモノを見て、

聞いたことのない音を聞き、

食べたことのないモノを食べ、

眠りに就いた。


それでも変わらない朝はやってきて、

また静寂な夜がやってくる。


会社の仕事の夢を見た。

1年後に中途入社した女性社員にものすごい剣幕で怒られる夢を見た。

なんだかとても現実的な夢だったので、

途中まで夢だと気がつかないくらい鮮明な世界だった。


夢、というものはとても不思議だ。

子供の頃、よく夢を見た。

空を飛ぶ夢。

何かに追いかけられる夢。

何かに押しつぶされる夢。

きまって定期的にみる、この夢三部作は、

私に一体何を訴えかけようとしていたのか。

それとも特にそこに意味はないのだろうか。

夢はとても不思議だ。


夢を見ている自分は、

なぜだかもう1つの世界の住人かのような気分にさせる。


夢というものは古来、様々な芸能、文化、哲学、芸術、科学、心理学など

幅広い分野にて研究対象とされている。

人間以外の動物も夢を見る、なんて話を聞いたことがある。

夢はとても不思議なものだ。

現実では起こり得ない現象がごく当たり前にそこには存在している。

ヒトはビルから飛び降りると物理の法則にしがたい地面に向かって自由落下をする。

でも夢の場合、意識の使い方によって空を自由に飛ぶことができる。

特別な訓練などいらず、才能のみで空を自由に飛ぶことができる。


でもいくら飛んでも宇宙までは行くことはない。

そういう意味で夢は無限なようで、自分自身の無意識という

有限の世界であるのかもしれない。


最近、夢を見ない。

夢を見てもとても現実的な夢ばかりだ。

私はその度にある仮定をする。

ようは現実的な夢しか見るこのとできない成長を遂げてしまった私は、

これ以上、超現実的な夢を見ることはないのだろうか、と。


夢は不思議だ。

私は夢は嫌いではない。

でも夢の世界にとどまっていたいとは思わない。

それは所詮、夢でしかないからだ。

私は彼女のことを世界で一番知っていると思う。

その彼女についてこれから説明していこうと思うが、まずはじめに断っておくと、

私は彼女に会ったことがない。

彼女に触れたことがない。

だが彼女と会話したことはある。

彼女と寝た夢を見たこともある。

誤解しないようにいっておくと、彼女は私の空想の産物ではない。

私は彼女の声も聞いているし、彼女の姿を見たこともある。

だが、彼女に会ったことはない。

彼女に会う前に、彼女はどこかへと忽然と姿を消してしまった。

それは彼女に会う2週間前のことだ。

彼女に何があったのか、についてはいろんな想像を巡らせて考えたのだが、

最終的には私にとってはそんな想像は無意味なものだ。

そんなものいくら想像したところで、彼女の身にふりかかった事実は私には分からない。

答えは1つしかない。

ただ、その答えを導くための手だてもない。

私は途方にくれるしかなかった。

そして彼女がまた私を訪ねてくるのを待つしかなかった。

そうやってはや1年と4カ月24日が経過しようとしている。

私は彼女が帰ってくるような気がしている。

私には彼女が必要で、彼女も私を必要としていた。

それは単純にお互いを愛し合っている、という理由ではなく、

私はきっと彼女に会うために生まれてきた、と確信できる理由を持っていたし、

彼女も同じような理由を持っていたはずだし、そのお互いの理由を確かめたこともある。

私はこれからそんな彼女について様々な側面から観察したその考察について書こうとしている。

これは誰のためでもなく、私のための文章である。

私以外にこの文章を必要としている人はいないはずだ。

私は私にその事実を伝えたいためにこの文章を書くことととした。

ただし、私以外の誰かがこの文章を読んでふと思いついたら、今すぐに実行するべきだと思う。

いつ、どこで、何が起きて、二人の仲を突然裂いてしまうことというのは、

案外、あっさりと、意外なほどに突然起きる。

起きたら最後、誰にもその流れを止めることはできない。

私が彼女と会うはずであった日を失ってしまっているように。

そんなことは日常生活の中でごく当たり前に起きうることだということを、

忘れないで欲しいと私はこれを読んでいる全ての人に伝えたいと願う。

そして彼女についての説明をはじめていきたいと思う。


歩いていると雨が降っていたことを嫌でも感じさせた。

空気はたっぷりと水を含み、その感触は肌を刺激し続けた。

歩くたびにくたびれたスーツが足に張り付き、その感触が歩く気力を奪っていく。

これだら夏は嫌いなんだよ、とぼやいたところで張り付いた裏地は容易に解放してくれるわけではない。

しっかりと肌の表面に張り付き、足の動きに合わせ必死にしがみついてきた。

そんな季節だけ私は女性を羨ましく思う。

スカートで歩いたら、きっと夏という季節が好きになるのかもしれない。


ヘッドフォンから流れる曲はlinkin' Parkが選ばれたところだった。

夕方の人通りの往来が激しい駅前の交差点を歩いていた。

ヘッドフォンから流れる、悲痛な叫び、のような歌声をBGMにして

魂の抜けた人たちの往来を通り過ぎる度に、この蒸し暑さで滅入った気分はさらに鬱蒼とさせられた。

だがその日はそんなことはどうでもよかった。

別に特別嬉しいことがあったわけでもないし、悲しむべきことがおきたわけでもない。

私の感情は理由もなく嬉しくなるときもあれば、悲しくなることもある。

多くの人はそれを「気分屋」と呼ぶのだけれど、私はそんな括られ方があまり好きではなかった。

「気分屋」じゃない人なんてこの世の中に存在しないのに。

その度に昔見た映画に出ていた擬似的に檻に収監される人の顔を思い出す。


夏の暑さは容赦なく私から生きる気力を奪っていき、足を運ぶ速度をスローにさせていく。

冬の気配すら感じることのない夏という世界に存在している自分はとても不幸だ、

と何度も呟くのだが、そんなことは誰も分かりはしないし、分かるわけもない。

一定の速度で歩き、信号の変わり際には小走りで信号を渡ることに必死な人たちには、

夏の気配、なんてものすら感じることがなく一生を終えてしまうのかもしれない。

そんなふうになってしまったとしても、生きていけるものだと感心してしまう。

私にはそんなエネルギーがどこにもないような気がするのだ。


私が夏の昼間に歩いているのは理由がある。

普段は理由などなく歩いていることがほとんどだ。

特に仕事のない休日の日に歩いていることなんて、1年に1回あるかないか、ではないかと思う。

休みの日にかかわらずスーツを着ているのもその理由のためだ。

私は人に逢うためにある目的地に向かっている。

私が通勤する会社がある元寄り駅の改札まで歩き続けている。

その人は私をその駅まで呼び出した。

目的は私が書いた文章に興味がある、端的に言うとそのようなメッセージをもらったからだ。

以前にも何度かそんなメッセージをもらったことがある。

世の中には不思議で風変わりな人もいるもので、私が書いた文章を読んで、

私自身に恋をしてしまう、ということが現実に起きることらしい。

きっと私が書いていることは私自信が書いたことには違いないが、

きっと私が書いた文章から導き出した私と実際の私には大きな隔たりがある。

さらに突っ込んで言えば隔たりが必ずあるはずだ。

仮にそんな隔たりがにないような人と出会ったとしたら、私は大きな穴に落ちてしまう気がする。

その穴はとても深く、どこまでも暗く、どれだけ落ちても底にたどり着くことはなく、

どこまでも浮遊感が続き、そして一定の速度で落下していく。

そんな風に私はきっと恋に落ちていくような気がする。

私はそのメッセージを送った人に会うために夏の暑さをじっと我慢しながら歩いている。

こんなことはとても馬鹿げているし、とても普通じゃないことだと思いながらも、

この暑さに辟易としながら、思いつく限りの罵声を心の声で浴びせながらも

なぜか一定の速度で目的地へ向けて歩き続けている。

早くもなく、遅くもなく、目的の時間の丁度10分前に到着するように。

実際には時間の設定はなく、夕方頃、というとてもアバウトな時間の指定がなされたのだが、

私は4時30分という時間を設定してそこへ向けて歩くことにした。

私は歩きながら2つのことに関して後悔をしている。

1つは今の季節が夏である、ということ。

もう1つは時間の設定を4時30分ではなく、5時30分にすればよかった、ということ。

それくらい夏の日差しはするどく私の肌をいたぶり続け、口で息をするほどに体力を奪っていった。

こんなことは馬鹿げている、と力なく何度も呟くが、

実はこんな馬鹿げていることを楽しんでいる自分がそこには確実に存在している、ということも

自分自身の中でよく認知しているのも確かな事実だった。

私の彼はあまりメールをくれない。

いつも私のほうから一方的にメールを送っている。

たまに返ってくるメールがとてもうれしいけれど、

なんだうまく言えないのだけど、とても寂しい気持ちになる。


ほんとこういう悩みって多いですよね。

携帯のメールなんて発明した人間も、まさかこんな事態になるとは思わなかったでしょうね。

当たり前のように、いつ、どこにいても連絡が取れる、なんて空間で、

果たして恋人同士が幸福か否か。

結局さ、女って生き物は満足しないわけですよ。

満たされたら新しい刺激を求めて、

特別なことが、当たり前のことに風化していって、

最終的には前と変わったね、なんて結論ですよ。

何も変わってないって。

人ってそんな簡単に変われないですよ。

結局、自分についてるアンテナが調子悪くなっているのに、

発信してる電波しか疑わないわけなんですよ。

男のことを都合がいいだのいうけどさ、ほんとよく言えるよ。


男って基本、女心を分かってないよね。

そうそう、ぜんぜん分かってない。

でも、分かってるふりをしているのが一番むかつくよね。

あー、それむかつく。

分かってないなら、分かってないって正直に言えばいいのにね。

そういう体面とか表面をすごい気にするよね、男って。

あー、そうそう、そうよね。

頼んでもない料理が出てきたらさ、返せばいいのに。

あっ、いいですよ、美味しそうだから食べますって。

その後、その分まで料金払っちゃって。

でも、帰り際に文句言うのよね。

あー、間違って出したんだから、普通金とんねーだろ、って。

ほんと、何がしたいんだかさっぱり分からないよね。

うんうん、ほんと何考えてるんだろうね。


男女間の相互理解は非常に困難だ、というけれど、

私からすれば、男女もおなべもおかまもなく、

自分と自分以外との相互理解は基本的には不可能だ、という前提から

物事を始めないことには何事も目的に達することはなく、

強いて言えば、その目的を曖昧なまま、なんとなく構築できているような

錯覚を覚える関係性なんてものは、

結局のところ、関係、なんてものは構築されておらず、

単に自分が繋がっている、と思い込んでいるだけのことであり、

そんなことで安らぎを覚える人間って生き物は、

どこまで退化していってしまうのだろう、と不思議に思うのです。


ようするに人間には重力が必要で、

外界においても、自分と外界の繋がりをうまく感じることができない

無重力空間なんてものに放り出されたら

人間の精神はいとも容易く崩壊してしまうのではないか、と考えるが、

結局、崩壊したところで、宇宙に独りで漂っている分におちえは、

何の害にもならないのだから、特に大きな問題ではなかったな、という

結論に至る。

「愛してる?」

「愛してるよ」


「何してる?」

「何もしてないよ」


「気にしてる?」

「気にしてないよ」


「休んでる?」

「休んでないよ」


「無理してる?」

「無理してないよ」


「ほんとに愛してる?」

「ほんとに愛してる」




行間のない会話は物語を生み、

物語はその禅問答に意味を生み、

そして物語は続いていく。

私という人間が、社会の中で普通に暮らしていることが、

ある友人たちから見ると非常に不思議なことだそうだ。

別に私は反社会的活動をしていたわけでもなく、

極度の対人恐怖症なわけでもなく、

重度の疾病を患っていたわけでもなく、

まあ、多少、一般的ではないにしろ、普通に生きてきたつもりだ。


会社という組織の中で人と深く関わることなどない、と思ってきたが、

深く関わることが本当にないものだな、と感慨に耽っている。

ごく当り前のことなのかもしれないが、

働いている私は私ではあるが、私ではない。

例えばこうやって書いている私もある意味では私ではない。

私は断片的にあらわれては消え、またあらわれる、を繰り返しているのだが、

その実、その実態はいったい何なのか、よく分からない。


久し振りに英国圏の人と電話で話をしたのだが、

電話での会話、というものは本当に難しい。

電話で世間話を英語でできる人を本当に尊敬してしまう。


そういえば、くだらないことを、

例えば初めてあった女性にするときに、

私はあまりおそれない。

ああ、この話、面白くなかったら、ということを考えない。

端的に要点だけかいつまんで言えば、どうでもいい、ということなのだけれど、

女性という生き物はどうでもいい会話をする相手は、

その相手そのものもどうでもいい、と思っている、と思いがちなようである。

これは非常に面倒な問題で、

ようするに私に対して向けられている視点、というのも、

どうでもいい話をする人は、その相手もどうでもいいと思っている、

という一般的な観念に当てはめて考えている、という意味で、

どうでもいいと捉えている、ということに気付いている人は、世の中にそう多くない。

私の好みは、そういうことが理解できる人、なのだが。


最近、音楽がうっとおしく感じることが多い。

音が無い世界、というものが存在するのならば、

そこに少しだけ足を踏み入れてみたい、と思う。


特にラブソング、というものが相変わらず横行していて、

非常に陳腐な言葉を、陳腐なメロディーで装飾して、

彼女とのデートに車で流すには非常に有用なのかもしれないが、

音楽で心動かされる時代は私の中ではとっくに過ぎてしまっている。

ただ、昔聴いていた音楽が引き金になって、

過去の情景や思い出が浮かび上がるとき、

なんだか、自分の意識に土足で足を踏み入れて、

見たくもないようなものを見せられたような気分になって、

とても落ち込んでしまう。

結局、自分というものは自分でさえよく分かっていないし、

自分というものをうまくコントロールしている気にはなっているのだが、

結局、そんなことうまくできていない、という事実が頭をもたげたときに、

私はどうしようもない陰鬱とした気分になり、

音の世界へと行ってみたくなる衝動にかられる。