日本権力の構造(カレル・ヴァン・ウォルフレン)

  知力を育て教育の欠落

 「日本の知的伝統の貧しさは、大学教育に反映している。学生たちの特徴は無感動ということだろう。大学の教授たちが学生の知的な喚起をするのはまれである。たいていは、学生たち自身が自分で発見するの身だ。高校の教育と同様に、知力を育てて広げようという教育は大学では行われていない。
  日本の学者は、欧米の学問の根を移そうとはせず、ただ人目を驚かすような花だけを切り取ってこようとする。その結果は、その花を持っている人がひどく尊敬されるというだけで、その花を咲かすような植物は日本では育たない。」
 こうした不毛なあだ花を見せつけて、自分に人目を惹きつけることはあっても、実は育たない。抽象的な西洋思想をたらふく食い散らかし、残る者は支離滅裂な未消化な知識の断片ばかりだった。そのために国家主義が台頭しても、西欧で学んだ論証の武器などは手には何も残っていないので、あっさりとナショナリズムに巻かれてしまうものばかりであったといえる。しかも、むしろこれは「日本人の考え方の柔軟性だと」と美化する程の低レベルにとどまってしまっていたというわけだ。すでに移入されたマルクス主義思想も同類だった。そうではなくて、自ら自立して考えていける論拠を持ち、大衆思想を作り上げる知力を養うことが、いま問われている。

日本権力の構造(カレル・ヴァン・ウォルフレン)
   
  日本は知的真空列島だ
 
 「日本の学問的な議論は、ごく小規模な自己充足的な論議の領界として知的真空の中に存在する。論述を展開する学者たちは反対されるのが嫌で、反論が不可能なほど自己の論点を不明瞭にする。知識人は自分の言った仮説を証明したり反証するするように求められることは滅多にないので、批判的評論は得意ではない。
 日本は個人が一人で知的世界を個別に作り出し、これらの人々の思索を総合的につなぎ合わせて、思考の枠組みとする壮大な知的伝統に欠けている。反論しようにも、あるいは新しい論を加えようにも、哲学的に思索の秩序だった体系がない。論理的に秩序だった抽象概念の体系は、現実を把握する知的努力の長い間の知的努力の産物である。こうした知的なベースがないと、競合する証拠の実態、関連、重要さ、比重、均衡などを正確に把握できないのである。」
 長い引用で、しかも内容が分かりにくいのかもしれない。しかし、この内容は日本の知的伝統が特殊で、しかも知的水準が西欧に比較すると著しく低いことを述べている。ここまで見通されているのかと驚くとともに、日本では思想の体系化がないために有意義な対話や推敲は進めることができず、知的信念が持てないままに長いに物まかれ取られていく文化的な特徴を暴露している。これを読んで、国内の学者といわれる西欧かぶれや、欧米の思想を紹介するだけで、自らはなんら知的創造もできないでいる連中が、恥部を暴露されていることを、とことん反省すべきだろう。私たちは論理的な思考を身に着け、思想の体系化と現実を把握するための知的努力を惜しみなくすべきだと諭されている。情けない話ではないか。しかし、これは的を得ている。私たちは戦後70年を経て、こうした知的な思想の体系化を着実に進めてきている。無能な政財官の支配権力がぬるま湯に浸り、大衆を愚ろうしながら、税金を湯水のように分配し、無駄遣いしては懐に入れ、自分たちの贅沢な身分を確保しているうちに、私たちは貧困の中で思想を研ぎ澄ませてきた。この著者は、こうした大衆が潜伏していることまでは、つかみ切れてはいない。

日本権力の構造(カレル・ヴァン・ウォルフレン)



「日本のマスコミは世の中の出来事を画一的に解釈し、自分たちに都合のいい"現実"を作る力を持っている。日本のマスコミは、日本についての情報と誤報のもっとも主要な源である。外国人記者、外交官やビジネスマンは、日本の新聞が非常に画一的ただから、紙面にある情報を信じがちである。各紙が政治の出来事について一致している様子や、国民の声を伝える雰囲気ほど現実を描くのに好都合なものはない。基本的には、外国は一つのフィルターを通して日本を見ているわけである。疑念と注視をもって接すべき報道が、そのまま信じられがちである。その結果、しばしば非常に誤解を招きやすい日本像が、そのまま報道されてしまう。」

 報道については、今まさに報道管制に従い、報道の中立性や自主性が失われ、どのメディアも新聞などの報道も画一的で、安倍政権批判を自粛し、報道の魂を売り渡し、報道の自由などあっさりと政府との取引や圧力に屈して、社会正義など微塵もなくなっている。海外も、そのことを十分承知して、そのままには受け取らない。彼らのほうが、真実を見抜く目をはるかに持っている。ただし、国民は、その一方的で偏向かつ画一的な内容の情報を選別する目を持ってはいなかった。しかし、今私たちは、彼らを信じてはいない。

日本権力の構造(カレル・ヴァン・ウォルフレン)


「日本の議会制民主主義の規則は、なんの威力も持っていない。そのため日本の特権階級の人々は、それ以外の人々に対して思い通りに力を行使できている。日本の典型的な状況に存在する服従と支配の力学は、実際には理不尽でありながら、同時に表向きは理に適っているかのように見せるということと密接な関連がある。」

日本権力の構造(カレル・ヴァン・ウォルフレン)

「建て前では、一般大衆の政治的意向は彼らが選び国会に送った政治家が代表して提示する仕組みになっている。同じく公式の現実では、独占禁止法や公正取引委員会がカルテルを防ぎ、司法が民主主義的な自由と個人の権利を守るはずである。労働組合は労働者の不満を公正に聞いてもらえるようにするし、そのほか多くの制度化された保障が、"民主主義的な自由市場制度"を敵から守るとされている。ところが、実際には独立した司法も、労働者の利益を第一に代表する労働組合も、経済界と官僚の市場操作を防止する効果的な保障もいっさい存在しないという事実は、隠されたままである。」

 読めば納得のとおり、表向きの民主主義政治と自由市場経済の裏では、政治家と財界と官僚との癒着の実態が、隠ぺいされた裏側で国民には知らされないままに、株の投機などや意図的な操作が行われている。安倍政権が、露骨にやりだしている「5頭のくじら」を利用した株価の意図的な引き上げという、まさに政府が敵となってマネーゲームもしくは実質的なインサイダー取引ともいえる至上操作などは、分かりやすい実例といえる。

日本権力の構造(カレル・ヴァン・ウォルフレン)
「米軍占領時代の遺産である新憲法は、日本人の共同的な態度が根本的に変わることを期待して作られた。しかし、期待された変化の多くは、起こらなかったり、生き残った官僚組織によってつぶされた。
 西洋の民主主義国家でも、民主主義という建前で、権力主義的な行為がある程度隠ぺいされるが、それには限度がある。"悪者をたたき出す"手があるし、法律に定められた制度的手続きに訴える手もあるからだ。日本では、その両方の手段とも不可能だ。」
 
 つまり、戦後の平和憲法でアメリカは封建的な旧体制の日本の社会を変える意図があった。しかし、その掲げた改革の意図を込められた憲法は、都合のいいように解釈されて、古い体質が温存されたまま、真の民主主義精神は理解されなかった。こうした明治維新から底流していた構造の中に埋没し、官僚の悪知恵で形骸化した抜け穴だらけの法文と化してしまった。
 また、西洋の民主主義国家では、権力が暴走した場合、国権力が隠ぺいした内容を国民は法的に開示請求できるだけではなく、法律で罷免やリコールもできる。しかし、日本には、権力が暴走しても、歯止めとなる法的な根拠がひとつもない。つまり、権力がひとたび暴走してしまうと、国民がそれを制止できる手立てがないということを指摘している。 今の、安倍独裁政権の暴走を、国民が直接罷免できず、受け入れるだけだということを示している。その通りだ。
日本権力の構造(カレル・ヴァン・ウォルフレン)
 日本の知識人や官僚が、ここまで自国のことを詳細に分析できているだろうか。されほど、この内容はすぐれている。つまりは、日本の政財官の支配権力構造を、完全に分析しつくされているといってもいい内容だ。
 興味深い内容が、あちこちにちりばめられているので、個人的に引っかかるものを取り上げてみたい。
①「日本の形式としての法の構造は、官僚の行動に正統性を与えるのに役立つ多くの行政法を許容している。その一方で官僚は、法律に訴える一般国民の動きに少しも邪魔されることなく、法の枠組みから外れることが自由にできるのである。<システム>は、人々がつっこんで批評的に見ることはないので、大きなダメージを与えられることはないから、あくまでも強力で、その影響は広くいきわたる。形の上だけの現実と実質的な現実との間のギャップは制度化され、それは優位な立場から弱者を支配するのには、理想的な手段となっている。」
  翻訳文のため、内容がつかみにくいので要約してみよう。
「日本の法律は官僚がやりた放題にやれるように守っている。しかも国民が法を根拠に官僚にクレームをつけようとしても、それができないように巧妙に作られている。というのも、法の抜け道を国民には分からないように作ってあるかにだ。こうした法制度の抜け道は、国民には理解しにくい。そのため官僚にダメージを与えられず、法律と実態は乖離し、官僚は弱者である国民より優位に立って、支配できる理想の形になっている。」
アメリカの危険な罠
 日本は第二次対戦の敗戦国として、アメリカの模倣による属国主義を貫き、経済成長をとげてはきた。しかし、アメリカの特に政治の中枢を担うカナン族のユダヤ人たちからは、事業投資話しに気前よく支払い、巨額の税金や企業からの資金を食い物にされてきている。株の売買、合法的なしかし法外に上乗せされた事業投資や軍事産業の売買など、破産させるほどの支出を巧妙に強いてきている。
 原爆は非戦闘員である就業労働者が数多くいて、周辺に労働者住宅が密集する妻子のいる地域が選定され、人間以下の動物とみなされた日本人の大量虐殺が指示器沙汰という。 クリントン大統領以後、第三次世界大戦の目標国を日本にするという目標が掲げられているという。この情報が真実だと仮定すれば、アメリカ傀儡政権としてひたすら、尻尾をふっている自民党政権と財界さらにはそれを支えてきている官僚層の目論見は、金を食いつぶされ、裏をかかれてしまう恐れすらある。
 集団的自衛権や軍国主義の復活を目する日本政府と、周辺の取り巻き企業などは、まったく新しい展望で世界の外交を捉えなおさないと、いいように使われて、ぼろ屑のように捨てられてしまいかねない。日本を中国の領土としてアメリカが差し出し、3つの世界権力分割を計画しているという可能性すらもある。
トリプルサークル(権力腐食の構造)
 大企業は絶対に破産することはない。それはメインバンクの銀行が、どんな場合も融資を続けるからであり、銀行は破綻することはない。何兆円かかろうが、政府が税金を強引に投入して銀行破たんを防止するからだ。憲法15条の公務員選定、罷免権は国民にあるなどという現実とはかけ離れてしまっている条文がある。一般の国民は別として、金銭関連のスキャンダルは、こうした政治家も官僚達が法的に咎められることはない。
 官僚エリートは25年ほど地道に勤務した見返りとして、自民党代議士になるか国や半官半民の公社や公団の要職が用意され、あるいは大企業や大手銀行の重役のポストに収まる。これら天下り官僚の無報酬は、官僚時代の2倍の収入といわれ、さらに権勢や給料外の特別支給を受けている。政・財・官のトリプルサークルはこうして閉鎖的な身分を確保し、支配層に相互の信頼とサポート体制を構築して君臨している。これらの癒着の構造を根底からメスを加えない限り、国民のためになる政治は実現せず、税金を食い物とした腐敗と腐食の元凶を改革することはできない。
ドイツメルケル首相の言葉  要約 
 自分は35年間、言論を弾圧されたドイツで育ち、それが国全体にとっても悪いことだと分かった。国民が自由に意見を述べられない国では、革新的なことは生まれないし、社会的議論も生まれない。 そうなると社会全体は停滞し、先へとは進めなくなってしまう。そうした国では、競争力も失われ、生活の保障もできなくなる。
 また、政府は市民が何を考えているかもわからなくなる。むしろ、市民の声に耳を傾けて、異なる意見の中から良い意見を見極めて、自国の政治や社会に反映していくことこそが、発展へとつながるものです。