責任という言葉の源流をたどると必ず「政治」がついて回るようです。

 

日本語の責任のもととなった漢語の「責任」が最初に使われたのも政(まつりごと)の文脈ですし,responsibilityもザ・フェデラリストという米憲法推進のための文章や日本の保守派にも人気ある(でも研究者から見るとちっとも理解されていない)エドマンド・バークのフランス革命への激越な非難の文章などに使われているように,最初は政治的な言葉だったわけです。

 

そして,現在の政治でもよく使われるわけで,政治的責任とか,責任政党とか,まあ実質がどうであれですね。

 

さらに現在のきな臭いさまざまな論争,例えば戦争責任とか天皇制とか国体護持とかも,実をいうと裏で微妙に影響しているのが「責任」という概念,あるいはその概念の(都合の良い)無力化であったりするわけで。特に新天皇になった昨年から,もう少し天皇制とシステムとしての責任について(あるいは無責任の正当化について)いろいろと思うところはあります。さらに現実の問題,地球温暖化や移民・難民の問題,軍事,経済,環境,持続可能性社会,人権,偏見や差別,原発,貧困,アジア的中央集権主義(特に中共),MeToo・・・あげればきりはないですが,これらも責任という概念が必ず必要になることで,ここら辺に対しても,さらにエッジを利かせられるように鋭くしておく必要性はあるのではないか。そうすれば我々が何をすべきか,特に政治的な意味において,もう少し視界がクリアになる気はします。

 

それで今年はもう少し,責任という概念と,政治についての関係性について,詳しく突っ込んでみたいなと思っています。そこからさらに個人の責任へ帰っていくような形にできたらよいですね(要は責任の概念の発展と同じ方向性で再度見直していくという)。

 

もう一つは政治とも関係あると思うけれど,法的責任と責任の関係性ですね。これは厳密にいえばイコールにはならないけれど,法学者で責任に関する見解を詳しく述べているハートなどの文章を見ると両者は決して別々の独立したものではなく密接に関連があるようで,ここら辺もう少し調べてみたいと思っています。

 

と言いながら,本業で時間がますます無くなっているので,どこまでできるかってのはありますが。