このような一連の流れを見て、まずは誰もが「何故、一年間もやってたの?」が第一声になると思います。

この質問は実際に、労働局の方にも、電話での事情徴収、個室での事情徴収でも、事情説明後すぐに聞かれました。

もちろん、何人の友人に聞かれたことか。


それはただ一つ。


”M社の雑誌のコンセプトにすごく可能性を感じ、自分も感じたことのある大変さから、同じ思いをしている人たちの為に役立つ情報を提供できる!” と、期待したからです。

だから、はじめに報酬の件で話しが違う、と思ってはいても、M社社長の「必ず払えるようになったらお支払いします」の言葉を頭の隅に、お金は後でついてくるものだ、と気持ちを整理し、とにかく今やれる事をやろう!と突き進んでこれたのです。


これは、唯一の同僚だったLさんも全く同じ思いだったようです。


しかしながら、自分の企画案を出せば、全責任を負わされた状態での記事作り。

家事、子育て、あと一つの仕事の時間の合間をぬぐって、たった一人で背負わされるラフの考案から、情報収集、取材、記事。

でも、全ては「アナタの為に枠を設けてあげたんだから」と言われてしまっては、責任を負うしかない状況。


そうなると、自然と企画提案に対する気持ちがひけてき、ただただ頼まれた作業をこなしている自分。

読者の為のはずなのに、広告クライアント獲得の為にコンセプトが決められる。

ベタすぎる情報=誰でも知っている情報、となっていく、ターゲットが見えなくなる、結果、情報誌自体の軸がズレにズレてきてたんですね。


今思えば、期待する事をやめる事現実に目を向ける事が怖かったのでしょうね。

そこにはM社A社長に対して人間として、経営者としての疑問や不信感を感じながらも、目を閉じてきた自分がおり、そして、それを認めてしばえばこの雑誌から去らないといけなくなる、という自分の計算があったのです。

今思えば、大変恥ずかしく、愚かな事です。


しかし、1年経った今分ったことは、自分の期待する雑誌にはできない、という気持ちと同時に湧き起こる、それならお金をそろそろちゃんと清算してくれなければ、これ以上、この仕事に携わっている意味が見つけられない、ということ。

そして何より、私の紹介した友人までもが、契約時の話と違い、報酬を踏み倒され状態になっていた、と知ったことで、このままではこのような正当でない全てが黙認になってしまう、と思ったのです。


それで、今の自分に対するけじめ、そして、不当な扱いを受けている現実に対し、ちゃんと正していけるものは正すべく、今、このように動く決心に至ったのです。


2009年11月12日(木) 3回目の労働局


月曜日に課題を受けていた、仕事内容のブレイクダウンしたものを提出する日です。

営業のコミッションにおいては、何号目に、どのクライアントが、いくらの広告料で掲載されているか、に分けてのコミッション算出。

編集などのオフィスでした作業においては、労働した日付、時間、作業内容に分けて算出。


実は、労働局からは最初、営業(アウトサイドワーク)でコミッション制で働いていた分は請求できないかも知れない、けど、できるかも知れない、と聞いていたんですね。

ここらへんは、英語で少し詳しい説明が聞こえなかったのですが。

しかし、オフィスでした労働(インサイドワーク)に関しては請求できるとの事だったんです。


結果、私の場合は、アウトサイドワークでのコミッションを算出するように言われたので、請求できることになったようなのです。


しかし、基本的に賃金の請求期限は1年になるとの事なので、私が一番最初に労働局へフォームを記入してクレームを出したのが2009年10月19日ということは、遡って、2008年10月20日以降の分が請求対象になるんです。

つまり、それ以前の2008年9月1日~10月19日までに働いた編集作業の時給分に関しては、請求できないんですね。


私の請求できる期限以内の、営業でとった広告料のコミッション20%、あと編集作業での室内ワークの時間数にハワイの最低賃金7.25ドルをかけたものが、私の請求できる金額となりました。


だが、以前のブログ記事であげていた、主人への撮影報酬だったはずの$781に関しては、これは、やはり私の名前でチェックがきられている以上、”私への給料”扱いになるとの事で、その分を差し引いた額になる事で、私は納得することにしました。


あとは、労働局の方から、私の算出した金額を支払うように、社長Aさんのほうへと交渉をしてくれるらしいです。


労働局の方は、とにかく、請求者が納得いくように、ちゃんと立証できる範囲で金額を算出させて、それを雇用主に証明しながら請求し、それで納得もらえなければ、再度、請求者にペーパーワークの要請や、聞き取りをやって、出来る限りお互いの合意の行くところに持っていくことが目的なんですよね、きっと。


今の時点で思うことは、本当に担当官の方は親身になってくれるんだということ。

ちゃんと通訳の方をつけてくれたことでフェアに報告できた為、とても納得いっているということ。

書類がないだけで全てが泣き寝入りになるわけではない、という事がわかったこと。

そういう事を、今の時点でとても感じています。


今の時点は、私のケースについては、次のアポイントを取る必要はなく、あとは社長Aさんが納得するかどうかにかかっている状況です。これで、支払いされることになれば、私のケースはおそらく終了になるのでしょう。



引き続き、また進捗状況をお知らせします。





2009年11月9日(月)の1時半 労働局2回目

同じく、入り口でIDチェックがり、340号室へ。

その日は、受付にいくと、すぐに中に入れてくれました。


今回は、Lさんの初報告ということもあり、Lさんの事情聴取が主でした。

そして、私達二人とも英語が厳しかったため、通訳できる方を呼んできてくださり、完璧に言いたいことを伝える事ができたのは、とてもラッキーだったと思います。


LさんはJ1で働いた期間に関しては、ビザサポートのエージェントを通していただけに、書類があるので立証しやすかったようです。それから、学生としてきていた分に関しては、報酬条件などの書面はもちろんなかったのですが、学生ビザであろうが、給料を出すといわれた以上は、請求できる!らしいのです。


ビザの問題はビザの問題で、また別問題なんですよね。(これは移民局の扱いになるのかも知れないです。)

労働局からすれば、”基本、働いた以上はそれに対する報酬を支払ってもらうのは当然”だという前提で機能するという事なんですね。


そして、私のほうは「メールの内容から、もっと業務内容をブレークダウンして、あと、もらえるはずのコミッションを計算してくるように」という課題が出されました。


担当官は、とっても親身になってくれました。

これだけ書類が揃ってなくとも、普通に考えればありえないのでは?という観点で見てくれたように思います。


まずは、私がセールスマネージャーという肩書きであったことや、雑誌にまで名前が記載されるほどに関わっていたこと、1年間のメールのやり取りからも分る作業量をみても、これを全部ボランティアでやっていたと考える人は何人いるでしょうか?あと、M社社長Aさんが3通のレターを私に寄こした、という行為も、明らかに労働局からの動きがあってからの事。


特にこのアメリカでは書類が全て、されど、可能な限りの事実のかけらでも持って望むべきだという事を知りました。

そして、2009年11月12日(木)午後1時半に3回目のアポイントをとって帰りました。