翌朝。
目覚ましが鳴る前に、
春は自然と目を開けていた。


カーテンの隙間から、
淡い光が部屋に差し込む。

(あ、ちゃんと眠れた)


それだけのことが、
今日は少しうれしかった。


昨日までの春なら、
「今日も頑張らなきゃ」と
一日の始まりに力を入れていた。


でも今は、
布団の中で一呼吸してから、
静かにこう思えた。

(今日は、戻りながら過ごそう)


洗面所で顔を洗い、
鏡に映る自分を見る。

特別な変化はない。

それでも、
表情の奥に、
急いでいない感じがあった。


通勤途中、
人の波に押されても、
春は自分の足元を感じて歩いた。

(置いていかなくていい)
(私は、ここにいる)


その感覚は、
胸の奥で
小さく灯る明かりのようだった。


仕事が始まると、
思い通りにならないことも起きた。

小さな緊張、
小さな焦り。


でも春は、
それを「消そう」としなかった。

(あ、今ちょっと無理してる)


そう気づいた瞬間、
肩の力を一段、抜く。


完璧じゃなくてもいい。
優しくなれなくてもいい。


戻ることだけ、忘れなければ。


昼休み、
ベンチに座って空を見上げる。


雲が、
ゆっくり流れていく。

(人生も、
 これくらいの速さでいいのかもしれない)


セルフの声が、
そっと重なった。


「その感覚を、
 特別な日にしなくていい」


「毎日の中で、
 何度でも戻ればいいんだよ」


春は、静かにうなずいた。

変わる必要はない。
強くなる必要もない。


ただ――
自分から離れないこと。


それだけで、
一日はちゃんと、進んでいく。


春は立ち上がり、
午後へ向かって歩き出す。


戻りながら生きる。

それは、立ち止まることじゃない。


自分を連れて進む、
新しい生き方だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜更け。
春はベッドに腰を下ろし、
灯りを少しだけ落とした。


今日一日を、
無理に振り返らなかった。
反省もしない。
評価もしない。


ただ、胸に手を当てて、
そこに残っている感覚を確かめる。

(……まだ、ある)


静かな安心。
戻ってきた感触。


それは、
努力の成果じゃない。
勝ち取ったものでもない。


ただ、離れなかった結果だった。

スマホが震えた。

誰かからのメッセージ。

一瞬、
条件反射で画面を見そうになる。


でも春は、
その前に、もう一度呼吸した。

(今は、ここに戻る時間)


通知は消えなかった。
問題も、なくならなかった。


それでも、
自分を置き去りにしない選択が、
ちゃんとそこにあった。


セルフの声が、
とても近くで囁く。

「春。世界に出ていく前に、
 必ず戻ってくる場所を通りなさい」

「それができる人は、優しくなれる。
 無理をしない強さを持てる」


春は、小さく笑った。

(私、前みたいに
 全部を抱えなくていいんだ)


灯りを消し、布団に身を沈める。


明日も、揺れるだろう。
また、迷うだろう。


でも――
戻る場所を知っている人は、
夜を怖がらない。


春は、その安心を胸に抱いたまま、
ゆっくりと目を閉じた。


世界はまだ動いている。
でも、私は、ちゃんとここにいる。


それで、今は十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝。
春は玄関で靴を履きながら、ふと立ち止まった。

(今日は、どうしても無理しそうな日だ)


予定が詰まっている。
人に会う。
判断を求められる。

胸の奥が、少しだけ早く脈を打った。


以前なら、
その鼓動を無視して、
「大丈夫なふり」をしていた。


でも今日は、
無視しなかった。

春は、鍵を手にしたまま、
一度だけ深く息を吸った。

(戻れる)


その言葉は、
自分を奮い立たせる呪文じゃない。
ただ、思い出すための合図だった。


駅へ向かう道。
人の流れに飲み込まれそうになっても、
足取りは不思議と乱れなかった。

(私、ちゃんとここにいる)


仕事中、
思い通りにいかない瞬間があった。

空気が少し重くなり、
誰かの視線が刺さる。


春の中で、
“いい子の癖”が顔を出しかけた。

(場を丸くしなきゃ)
(私が我慢すれば)


その考えが浮かんだ瞬間、
春は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

(今は、戻るタイミングだ)


声を大きくするでもなく、
黙り込むでもなく。

ただ、
自分の感覚を置き去りにしない。

それだけで、
状況は劇的に変わらなかった。


でも――
春の中で、何かが壊れなかった。

昼休み。
窓際の席で、
光を浴びながら目を閉じる。

(私は、ちゃんと戻ってきてる)


セルフの声が、
とても近くで響いた。

「そう。戻れる場所を持つ人はね、
 世界と戦わなくていい」

春は、静かに笑った。


生き直す、なんて大げさなことじゃない。
変わる、なんて宣言もしなくていい。

ただ――
離れたら、戻る。
揺れたら、戻る。


それを繰り返しているうちに、
人生は、少しずつ
自分の幅に馴染んでいく。


夕方。
空の色が、ゆっくり変わっていく。

春は思った。

(私、もう“迷子になる怖さ”は減ってる)


それは強さじゃない。
安心のかたちだった。


今日も、
ちゃんと戻れた。


その事実が、
明日を生きる理由として、
静かに胸に残っていた。