朝、靴を履く前に、
なぜか床に足をつけたまま立ち止まっていた。

 

冷たくもなく、
温かくもないその感触が、
やけに心地いい。

 

そのとき、頭の中で声がする。

「早くしなきゃ」
「遅れるぞ」

……はい、来た。

せかし屋の“時計係”」

 

この人、いつも忙しい。

常に時計を見て、
なぜか少し怒っている。

 

でも今日は、
その声をそのままにしておいた。

無視じゃない。

“ちょっと横に座ってもらった”

 

すると、もう一つの感覚が浮かんできた。

足の裏から、
じわっと何かが上がってくる。

 

それはまるで、

大地が「ここにいていいよ」と

言っているみたいな感覚

 

その瞬間、
呼吸が深くなる。

 

奈央は、少ししゃがんで土に触れる。

そして静かに言う。

「急がなくても、ちゃんと進むこともある」

 

その言葉に、
なぜか体の奥がゆるむ。

 

時計係は、まだそこにいる。

でももう、
指示は出してこない。

 

ただ、腕時計を見ながら
黙っているだけ。

 

ふと、思う。

今までずっと、
「前に進むこと」ばかり考えていたけれど

 

もしかしたら

「今ここにいること」が、
いちばん深く進んでいる状態なのかもしれない

 

その一文だけが、
なぜか心に残った。

 

風がやわらかく吹いて、
葉が光を揺らす。

 

八十八夜。

芽が出るタイミングは、
無理に引き上げたときじゃない。

整ったときに、自然に出る。

 

今、足の裏は
どこにつながっているだろう。

 

そして、その場所に、
安心して立っているだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。

 

まだ眠い目を閉じたまま、
その明るさだけを感じていた。

 

そのとき、いつもの声がした。

「起きなきゃ」
「今日もやること多いな」

 

ああ、来た。

朝イチで指示出してくる“監督”

 

ユング的にはこれ、かなり重要な存在。
(ちょっと厳しめの現場監督みたいなやつ)

 

でも今日は、少しだけ違った。

まぶたの裏に、やわらかい光が広がる。

 

それがじわっと、
頭の奥にまで染み込んでくる。

 

すると、監督の声が少し遠くなる。

 

その瞬間、ふと浮かんだ。

「別に急がなくてもいいかも」

 

その一言だけが、なぜか心に残った。

 

外に出ると、
新緑の匂いが風に乗ってきた。

 

葉っぱが光を通して、
やわらかく揺れている。

 

その光を見ていたら、
ふと思う。

 

今までずっと、
“ちゃんとやること”ばかり考えていた気がする。

 

でも、もしかすると――

“感じること”の方が先なのかもしれない。

 

奈央は少しだけ空を見上げて、言う。

「光って、急がないんだよね」

 

その言葉に、なぜか力が抜ける。

 

何かを変えようとしなくても、
何かを頑張らなくても、

ただ光を感じているだけで、
内側が静かに整っていく。

 

そのとき、気づいた。

頭の中の“監督”が、

椅子に座っているだけになっている。

 

指示は出さない。
ただ、そこにいるだけ。

 

ああ、これでいいのかもしれない。

 

光は、何も言わない。

でも確かに、何かを変えていく。

 

今日のあなたは、
何を“しよう”としているだろうか。

何を“感じよう”としているだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰り道、コンビニの灯りがやけに明るかった。

 

一日を振り返ると、
小さなミスがひとつだけ浮かんでくる。

 

それだけなのに、なぜか気持ちが重い。

 

足を止めたガラス越しに、
自分の顔がぼんやり映っていた。

 

そのとき、頭の中で声がした。

「やっぱりダメだな」

その一言だけが、なぜか心に残った。

 

気づくと、わたしの中には
黒いローブを着た“裁判官”が座っている。

 

机を叩きながら、
淡々と判決を下してくる。

「証拠は十分だ」
「今回も失敗だ」

 

まるで、ずっと前から
わたしを裁く準備をしていたみたいに。

 

奈央は、隣でコーヒーを持ちながら
その様子を見ていた。

 

「その人、ずいぶん忙しそうだね」

そう言って、少しだけ笑う。

 

裁判官は、また机を叩こうとした。

でもその手が、ほんの少しだけ止まった。

 

奈央は続ける。

「その人がいなくなったら、困る?」

 

わたしは少し考えた。

 

いなくなったら、静かになる。

たぶん、少し楽になる。

 

その瞬間、裁判官の椅子が、

少しだけ遠くに動いた気がした。

 

コンビニの灯りが、

さっきよりやわらかく見える。

 

わたしは深く息を吸って、
そのまま歩き出す。

 

その声は、本当に必要な声だろうか。

 

それとも、

ただ昔からそこに座っているだけの人だろうか。

 

コンビニの光の中で、
彼女はしばらく立ち止まっていた。

 

さっきまで胸の奥にあった、
あの重たいものが

完全じゃないけれど、
少しだけほどけているのを感じていた。

 

ガラスに映る自分と、目が合う。

 

ほんの少し前まで、
その顔はどこか責めるようだったのに、

今は違う。

 

何かを言いたそうで、
でももう責めてはいない。

 

そのとき、ふと気づく。

さっきまで頭の中で話していた“あの声”が、
少し静かになっている。

 

消えたわけじゃない。
ただ、距離ができた。

 

ああ、そうか。

あの声は、
“わたし”じゃなかったのかもしれない。

 

その一瞬、
胸の奥に小さな余白ができた。

 

風が少しだけ強く吹いて、
髪が揺れる。

 

夜の空気は、思ったよりやさしい。

 

ポケットからスマホを取り出す。

 

誰かに連絡するわけでもなく、
ただ、画面を開いて閉じる。

 

それだけで、少し安心する。

 

またガラスを見る。

そこにいるのは、
完璧じゃない自分。

 

でも、なんとなく、嫌いじゃない。

 

その感覚が、少しだけ不思議だった。

 

小さく息を吐いて、
コンビニの扉に手をかける。

 

自動ドアが開く音とともに、
あたたかい空気が流れ込んできた。

 

ほんの少しだけ、
世界がやわらいでいる。

 

ずっと話し続けているその声は、

本当に“わたし”の声だろうか。

 

それとも、
ただそこに居座っているだけの、誰かだろうか。