巷では、『スターウォーズ エピソード7』がものすごい人気ですね。
 ぼくも、もう2回観に行きましたよ!
 いやぁ、ストーリーもおもしろく、「まさか!!!!!!」という出来事があり、ミレニアム・ファルコンや新型Xウィングもかっこよかった!!
 しかしなんといっても、あの緑色の「LUCAS FILM」というロゴがスクリーンに映し出され、「♪てーててててー♪」とスターウォーズのテーマ曲が流れたとき、ぼくは「生きてるうちにこれを映画館で体験することができるなんて…」という感動に打ち震えました。
 というわけで、ぼくらは今世界的なスターウォーズブームの真っただ中、もしくはその周縁にいるわけなのですが、ここでぼくはあらためて『エピソード4』を観てみました(もちろんDVDで)。
 『7』へつながるルーク・スカイウォーカーが主人公となるシリーズ。いろいろ知ったうえで観るともう感慨もひとしおです。
 さて、この『4』のひとつの山場は、オビ=ワン・ケノービとダース・ベイダーによる、ライトセーバー対決のシーンでしょう(ですよね?)。
 『3』であれだけ激しく、そしてハイクオリティハイアビリティの決闘を演じた二人が、一人は歳を取り、もう一人は体の半分が機械になり、戦いの迫力は半減しました(しかしそこがいい!)。
 『4』での決闘の結末は、もちろんご存知ですよね。オビ=ワンは、ライトセーバーの戦いでは勝てないと悟り、肉体を捨てルークを導くフォースとしての存在になりました。
 それは、「生命」というものへの洞察を極めたジェダイとしての、ひとつの「勝利」のように見えます。
 ですが、ここで問うてみたいのです。「精神的に勝てば、物理的な次元においては敗北してもいいのか」と。
 私はそれは「負け」だと思うのです。
 例えば現実で、彼女を連れて歩いているときに不良に絡まれたとしましょう。
 不良たちは彼女がかわいいので「おれたちと遊ぼうぜ」と言い寄ってきます。そのとき彼女を連れていた「ぼく」は何とかしてこのという状況を打開しようとしますが、あまりにも不良たちがしつこく、もはや武力行使しか方法がないところまで追い込まれてしまいます。
 そしてケンカがはじまりました。しかし多勢に無勢。「ぼく」は抵抗虚しく戦いに敗れ、彼女も連れ去られてしまいました。。でもぼくは「やつらは卑怯にもひとりの人間を複数で襲った。ぼくはひとりで戦った。勇敢だったのはぼくだ。心の強さではぼくの勝ちだ」と、精神的勝利を疑いません。
 ・・・という結末でいいのでしょうか?いや、彼女のことは守らなければなりますまい。どんな状況だとしても、最低限彼女を逃がすくらいはしてあげなければなりますまい!
 少林寺拳法に、「力愛不二」という言葉があります。少林寺拳法の開祖、宗道臣の言葉です。「力なき愛は無力であり、愛なき力もまた暴力である」。力と愛が両立してこそ、戦いの技術を生かすことが出来るのだ、ということです。
 スターウォーズから出発して、少林寺拳法に寄り道したのには理由があります。この「力愛不二」、ジェダイもまたそうだったのではないでしょうか?少なくとも、 「力で勝てない相手には精神的に勝っていればよい」というような甘えた考えは『スターウォーズ』には見られないように思います。
 そのうえで『4』のあのシーンを見て考えてみると、実は、オビ=ワンはベイダーに、剣技の面でも勝てたのではないか、という考えが浮かんできます。
 ベイダーを倒すことは、帝国に大きなダメージを与え、その分だけ人々は「自由」に近づくことが出来るかもしれない。それなのにあえてそれをしなかったのは、オビ=ワンの心の中に、より大きく高い視点から見たヴィジョンがあったからなのではないでしょうか?
 オビ=ワンが自らいなくなるとき、彼はルークの姿を見ています。 
 オビ=ワンは、ルークの目の前で実の父親を殺すことができなかったのではないでしょうか。
 いまベイダーを倒しても、ルークが長い人生を生きていれば、いつかベイダーが父親だったという事実に辿りつくかもしれない。オビ=ワンは、ベイダーを殺すことで帝国に大きなダメージを与えることよりも、目の前の大切な人を不幸にしないことを選んだのかもしれないのです。
 またそのうえで、父と子が向き合い、その間でもつれてしまった関係を乗り越えることをのぞんだのではないでしょうか。そうだったらおもしろいなとも思いますし、またエピソード7でのハン・ソロのストーリーを踏まえて考えると、そうかもしれないな、とも思います。
 さて、オビ=ワンがそこまで考えたという証拠は、今のところぼくには見つけられていません。真相やいかに。知ってる方がいましたら、ご一報お願いします。


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