日本武道礼法道連盟総帥日誌
平成24年10月20日(土)晴れ    21℃(予報)


今日の舘長ブログ更新は「昭和40年代防具付空手道 正拳突き の感触を知る」でまとめてみます。


ここ10年の防具付空手道は“打撃力を競う試合からポイントを最優先する試合”へと様変わりしてきているように思います。
こうした競技法は、選手出場の裾野を広げ、多くの青少年を空手道競技の場へ参加させる適応した競技法だと思います。


しかし、スピートある技の反面、防御の甘さを感じるときがあります。
それは防具着用に頼り過ぎ、防御が甘くなり、無防備の状態で攻撃を仕掛けたり、相手の技をまともに受けたりしている選手の姿を見かけるからです。


試合としての戦い方、防御のあり方は時代の流れに沿って変わって行くものと思います、しかし、空手道は武道、防御が甘くなると本来の空手技から遠ざかっていくように思います。
安全防具は安全性、実戦性、判定の明確性、公平性を期するため着用するもの、このように感じるのは私だけでしようか?


空手道の試合は攻撃技と防御技がセット、その技で初めて試合が成り立つと思います。


私達が若かった時代は一撃必殺を想定した稽古、攻撃と同じように防御法の稽古は大切な位置づけのものでした。
正拳突き一つにしても、その突き技はポイント制の突き技と大きく異なり、伝統を受け継いできた突き技であるかは見てすぐに分かります。


スピートやタイミングを増すため、ミットを利用した蹴り、そして、正拳突きも速さを求める鍛錬法に変わり、防御法の鍛錬位置づけが甘くなってきいるように思います。
私がここに掲載する内容はあくまでも平均的な見方としてとらえて戴きたいと思います。


子供達は別にしても、空手である以上、正拳を鍛えたり、防御法や捌きの鍛錬も重ね、弾き返すような受けの修得が大切です。
その技を身につける事によって、実践的な戦いでも負けない、強い精神が芽生えてくるのではないかと思います。


昭和40年代の防具付空手道は“突き 蹴り”にしても、対戦相手が後ろに反るぐらいの衝撃のある打ちぬきの攻撃、相手を倒す勢いのある空手技でした。
防具はカラテクター、剣道の面に近い防具面、正拳を鍛え込んで試合に臨まないと怪我のもと。


大会で勝ち進んでいく度に、防具面の支柱に正拳が何回もあたり、試合が終るころには正拳が赤く腫れあがったものです。
その対策を含め、巻き藁、松の木、サンドバックを思い切り、突いたり、蹴ったりして鍛えておりました。
拳ができ上がってくると、床のセメントを叩こうが、電柱を叩こうが、その衝撃は拳に吸収し痛くはないものです。


その証が試し割、瓦割、煉瓦割、ブロック割、石割など、春日部道場の師田中毅一先生の石割は錬武舘でも有名で、今は懐かしく思います。


新道場に置いてある当時のカラテクターを森、中古賀指導員が手に取り、その重さと使用し難い面に驚いておりました。
重さにしてもカラテクター1.7Kg位に対し、硬式系の面は0.7Kg前後、2倍以上の重さがありました。


私は若手の空手技量を見る時、全力で巻き藁を突かしたり、ガチンコ受けしたり、腰相撲したりします。
その事により、実践的な組手、打ち合いになった時の力量が予測できるからです。


とっさの時は素手による対応、拳より堅いものを打ちこんだ時、骨折事故に繋がる恐れがあります。
スポーツ空手道として拳サポ良し、伝統空手として素手の鍛え良し。


普段、ミットだけで巻き藁を突いていない選手は全力で“巻き藁”を15本位突くと拳を痛めるはずす。
この事こそが今日のテーマ“正拳突きの感触を知る”と云う答えではないでしようか?


各団体でも伝統的な色々な指導法があります。


その中でも、錬武舘流錬誠舘の門下生は正拳を鍛える事が最大の教えとして意識して頂きたいと思います。




日本武道礼法道連盟総帥日誌
平成24年9月29日(土)晴れ    30℃(予報)


今日は“和の精神”について私の考えをまとめてみます。


私はこの言葉を聞くにつけ、田中毅一先生の顔が浮かびます。
田中先生は常に“和”を考え大切にされていた先生で、何を行うにしても一人ひとりの可能性を信じ大事にされておられました。


それはどう云う時も独善的にならず、全てを幹部と相談され、行き違いのないように連携を深められていたからです。
当時、錬武舘春日部道場は個性のある数多くの門下生が所属しており、勇ましい半面、田中先生にはみんなが絶対的な信頼を寄せ一致団結しておりました。


現役を退かれ何十年となりますが、今でも師に対する思いはみなさん変わりません。


私共が錬武舘流錬誠舘を創設した時も、組織結束のため「信は力成り」の道標を錬誠舘船出のために戴きました。
中々、そう云った先生には巡り会えないものです。
先生のお言葉は我家の居間で燦然と輝き、生き方の理念ともなっております。


日本武道には 心 技 体 と代々伝えられてきた教えがあります。
正に、この心を体現されているのが、尊敬する田中先生です。
その先生も今年で満80歳、錬武舘流錬誠舘10周年記念祝賀会の席でもお祝いをする運びとなっております。


私はいつも思うのです、武道修練の先には“何があるのか”と、私は人間力創りしかないと思っております。
その為にも、代々伝えられてきた礼法と経験してきた体験を活かし、その求める心を完成して行きたいのです。


日本武道礼法道連盟を立上げ研究してきたのも、このような目的があっての事です。


一般的に武道の 技 体 は指導をよく受け鍛錬しておりますが、心を磨く指導となると機会が少なく、個人的技量に委ねられる面が多いように思います。
丈夫な基礎体力を創る段階から、技の研究と鍛錬を繰り返し、そして人間力を磨き、人間としての魅力を高めていくことがより自然に思います。


激しい武道を通して、みんなで心を磨き、心根の優しい人間に成長していくことが、人としての輝きであり、みんなと仲良く、感謝の心をもって穏やかに過ごせることが人生最大の財産ではないでしようか。
いくら強靭な体を創ろうが、いくら試合で結果を残そうが、心のバランスが崩れると人生の充実感は保てないように思います。


そういう事を踏前、私の信条は“みんなのその笑顔が嬉しい、そしてその笑顔を見たい、その為に私には何ができるのか”と心掛けながら生活しております。


人間は十人十色、同じ目線ではなく、見方の目線変え、自分より優れた面を見つけ出し、自分自身の考えのステージを一歩上げていくことがコッのようです。
そうすることによって心に安心感が生まれてくるものです。


話しは変わりますが、最近の新聞紙上では社会的に認められてきた方が社会的規範を犯したり、青少年の手本とならない行為で大きく報道され、制裁を受けている姿を見かけます。


この様な利己的な未熟な生き方では、積み上げてきた人生はだいなし、残りの人生は反省だけ、武道を通して我慢する抑制能力をより高めてもらいたいものです。
その為にも、錬武舘流錬誠舘では社会規範厳守の厳しさと和の精神を基に青少年を健全に育成して参りたいと思っております。


和の精神や心の修養は人の心に存在するもの、いかなる時でも心のあり方が左右されないように努めたいものです。


錬誠舘では技術的な指導は勿論のこと、代々伝えられ受け継いできた“和の精神”を語り合いながら、門下生一人ひとりが人間として成長し、有意義な人生を過ごせるように向き合っていきます。
そういう精神が地域に広がり、みんなと助け合い、協力し合えるような町づくり、錬誠舘はその一助となり邁進できることを願っております。


今、何をやってもつまらない、面白くない、地域の青少年は是非錬誠舘を見学して頂きたいと思います。
錬誠舘の絆の思想は“死んでも一緒”の精神が息づいております。


何か、生きがいのきっかけを掴めていただけるはずです。
錬誠舘にはみんなの我家、居場所、拠り所があります。


そのことを実感していただいた時、地域の方々に日本武道の素晴らしさが伝わり、地域に密着した日本武道が浸透していくものと信じております。


結びに、和の精神、守礼の精神は自分自身を守る人生最大の盾となることでしよう。


錬武舘流錬誠舘 坪山

日本武道礼法道連盟総帥日誌
平成24年9月14日(金)晴れ    33℃(予報)


今日は珍しく、私の定休日。
明日は第2回錬武舘流空手道選手権大会の日、舘長ブログは今日の夕まとめることにしました。


今日は、私が錬武舘流防具付空手道を通して学んだことをまとめてみたいと思います。


錬武舘流の稽古を通して、私は礼儀や立ち振る舞い、実戦的な突き、打ち、蹴り、受けを学んできました。
今日はその中の礼儀について考えをまとめてみます。


一般的な礼儀作法は「礼に始まり 礼に終わる」と教えられてきましたが、最近は礼儀作法に重きを置かない空手道の大会が多いように感じます。
それはスポーツ勝利主義的な考えや、勝つことを最大の目標とする団体にその傾向は見受けられるようです。


選手にとって、大会での優勝や入賞は最大の喜び、努力の成果を計る大切なものでもあります。


その喜びをもっと感動的なものにし、心からお互の選手を讃え合うことの出きる大会、そして、その流れにするため礼儀作法のあり方に喝を入れたいのです。


武道も世界に広まり、テレビや大会で見られるその光景は 嬉しさの余りにガッツポーズする姿 嬉しさが爆発し、会場を走りまわる姿 悔しさの余り、帯を畳に投げつける姿 気持ちが落ち込み、うずくまる姿 勝利者と握手を拒否する姿 判定に不服を持ち、審判員に詰め寄る姿 など多くの規範に外れた行為を見かけます。


勝って兜の緒を締める 勝って驕らず、負けて腐らず の武道精神を発揮することが大切で、勝っても、負けても評価を下げない試合態度が望まれます。


しかし、同じ武道でも剣道においては静寂の厳しい戦いの中に、礼法を見る思いがします。
最初から最後まで、礼儀正しい戦いの姿を見るにつけ嬉しくなります。


礼儀作法を大切にする団体は、礼に対する考え方と捉え方が一段高い教えになっているように思います。


大会における感動は、選手が必死に戦う姿と礼儀正しく、正々堂々と戦う姿が一つに合い重なった時、生まれてくるものと思っております。


私は現役を退いたころから“武道の礼儀とは何か”をあらためて考えるようになりました。


見方や考え方だとは分かっておりますが、今まで教えられてきた礼儀作法の言葉「礼に始まり 礼に終わる」では、私には何かピリットこないものがありました。
それは作法の間に 行い が見えなかったからです。


“行い”を入れた喩えの礼儀の言葉はないか、6ヶ月間位あらゆる文献や書物で探しました。
そして、私が求めていた礼法の言葉にたどり着いたのです。


その時の嬉しい衝撃は今でも忘れません、剣道の古い教えで「礼に始まり 礼をもって行い 礼に終わる」言葉です。
礼をもって行いは 礼を尽くす、謙譲の態度をもって と私は解釈し、この作法の教えこそが、私の探し求めていたものでした。


指導者によっては同じ考えだと思われるかもしれませんが、私はそこにこだわりを持ちました。
それからは、この礼儀の心が私の道標となっております。


礼儀作法を重んじない大会は喧嘩フアイトになりがちで、感動のある大会かすると程遠いものを感じます。
格闘系のフアイト精神でいくのか、礼法を重んじる武道系の精神でいくのか、選択する道で指導法は大きく変わっていきます。


私共、錬誠舘の門下生は礼法を重んじる精神を更に入魂し、大会に出場させて行きたいと思っております。


錬武舘流錬誠舘 坪山