「普通」の不通、「フツー」の交通

  ~~細川貂々論

 

結 コミック・エッセイの交通

  (三つに分けたうちの二つ目)

 

 では、細川貂々作品にあっては、何が息子との距離を確保させたのか。――「ツレ」のうつ病の体験である。息子を育てるに当たって、様々の混乱を経験する夫婦は、病気だったころの「ツレ」のことを思い、彼の世話をした「てんさん」の経験を思う(典型的には、『ツレはパパ1年生』の「産後うつ」など)。息子の行動の一つ一つを見つめ、振り回されながら、実は自分たち自身が混乱していることを理解する。そこから立ち上がろうと、彼らは自分たちが生きてきた過去を未来と重ね合わせて、乗り切っていく。その際、常に世間への信頼を取り戻していく形になるのだ。
 私小説的なマンガの現在の後裔たるコミック・エッセイにあって、細川貂々作品がぬきんでた魅力を湛えるのは、まさにこの点であろう。彼女の作品にあっては、「発見」の多くが、いったん行き詰まるという形で「自分」を多孔的な(脆弱性を持ち、欠点だらけで、取るにたらない存在感しか持たない)存在として認識することから「社会(=世間=ご近所)」を発見し、信頼に足るものとしてそこに生き続ける条件を生み出す。作品を制作することで、彼女はその条件を現実化する。それによってさらに「私」が知らなかった「私」に気づく姿が描かれるという反復がある。これこそまさに、アルチュセールが資本主義社会の組織に関して述べた「再生産」の過程を示すものである。そして、このような性格を持つ細川のコミック・エッセイ群は、書き手自身も知らなかった事実を「発見」してそれを「脱力」するような自然な形で社会に伝えていくという「随筆」の系譜にも、確かに連なってている。
 だからこそ、彼女が啓蒙的な立場で書いている各種の作品は、魅力に乏しい。啓蒙的な随筆の多くが読むに堪えないように。「私」自身がいかに驚いてみせようと、それは作品に先行して用意された驚きに過ぎず、「私」や「ツレ」を揺るがす(再生産する)ものではないからだ。一台の車の位置が変化し、それにより周囲との関係性も変化することを「交通」として捉えれば、啓蒙的な作品群は、ナビ画像を操作しただけのもののようになってしまうのだ。
 だから、近作『それでいい。』で触れられたような、彼女の母親からの影響を否定的に捉えて遡行していく試みは、おそらく魅力的な作品とはなり得ないだろう。彼女自身が通俗的な心理カウンセラーのように、作品を書く前に自らの〈心理〉という地図を得てしまいかねないからだ。そういった作品には、鼻の有無に思わず読者がひっかかってしまうようなキャラクターは出てこないに違いない。
 もっとも、このような創作体験を通して、後に活きる「潜在能力」が養われることがあるかもしれず、何らかの「幸運」を引き寄せることにならないとは限らないが。

 

   (明日の朝七時半公開の「結」の三つ目のパート・最終回に続く。)