「普通」の不通、「フツー」の交通

   細川貂々論

 

Ⅲ 異人と「フツー」

   『イグアナの嫁』 『私が結婚できるとは』 『イグ その愛と死』

      (三つに分けたうちの三つめ)

 

『ツレがうつになりまして。』が細川貂々という作家を誕生させたとすれば、彼女を社会の中に位置づけ、自立させる養育者の役目を果たしたのは、異形の異人「イグ」を描いた「イグ三部作」だった。
 しかし、「イグ」によってもたらされた社会は、決して彼女を慰めない。人は、社会の外にいるときに、孤独なのではない。社会の中に自分もあることを、泣き笑いなく、どうしようもない現実と受けとめるとき、「ツレ」が布団を被って落ち込む姿が滑稽に見えてしまう。人は、自らの身も同様の滑稽さを示すものとして、受けとめざるを得なくなるのだ。何も取り乱すことはない。何も誇るべきことはないのだから。この世の中では。――そういう自覚だ。
 ならば、「フツー」の社会とその中にいる自分を自覚した時、作家は何を語ることができるのだろうか。――その疑問への一つのチャレンジが、細川貂々の現在時なのだ。

 

 (今週の金曜日公開の「結」に続く。)