「普通」の不通、「フツー」の交通

――細川貂々論

 

Ⅱ うつと笑い (「ツレうつ」シリーズの二重性)
      『ツレがうつになりまして。』『その後のツレがうつになりまして。』

   『7年目のツレがうつになりまして。』

    (三つにわけたうちの一つめのパート)

 私小説的なマンガの系列にあって、細川貂々作品は、「欲望を探す私」が描かれる点で、「欲望の潜在性」という私小説系の少女マンガから隔たったものであることを、我々は前節で見てきた。その「欲望」とは、「分身」への願望と言い換えることも出来るものだ。この「分身化」は、かつて大塚英志が『少女民俗学』(光文社 一九八九年)でレポートして見せた「生産」に関わらない純粋消費者としての「民俗」性を持つ少女たちが、外の世界からの閉鎖願望という形で表現していたもののように見える。細川は、後に彼女の描いた作品を読む限り、大塚が描く無名の彼女たち(ビッグ・バンは「昭和四十年代後半から五十年代初頭」)に継ぐ世代であり、この閉鎖性を純粋に表現できた人物だ。北関東の田舎町。自営業の両親の一人娘。プラザ合意に前後する数年。――このような環境が、彼女の「成長」への嫌悪感を裏付けしていたのだ。
 彼女は自作の中で繰り返し描き出す――学校生活期の「人と同じことができず」、「人とあまり関わらず」、「私なんて」と多くのことを諦めてしまう「マイナス思考クイーン」ぶりを。しかも、ここで描かれる「私小説」的な世界は、西原理恵子の作品群のような激しい魅力を持っていない。批評家集団・前田塁が西原作品に対してごく安易に指摘したような(『小説の設計図』 青土社 二○○八年三月)、近代社会への価値転倒などという強さも含んでいないのだ。「没・魅力」とも呼ぶべき一見地味な作品に過ぎない。
 現在、街の書店に出かけてみれば、数多くのコミック・エッセイで一つのコーナーが埋め尽くされているのを、我々は見る。それらの多くは、ジャーナリスティックな興味の強い「私小説」的なものであったり、生活(技術)に関するちょっとした啓蒙書であったりする。就中目を惹くのは、病気・障害に関わるタイトルの多さである。細川作品がそうだったように、「うつ病」だったり、「統合失調症」だったり、「認知症」だったり…。そのようなテーマを扱ったものが、大変に多いのだ。それが明確なテーマとまでは言えなくても、西原の作品の中にも、病んだ(元)夫が主要なキャラクターとなっているものもある。
 たしかに、『ツレがうつになりまして。』は、「うつ病」という病気を扱った点が作者をブレークさせるきっかけを作ったと考えて間違いない。この作品が世に現れるのに先行していた政府による「うつ病」周知の大キャンペーン。これにより、世にこの病気への関心が高まっていたのは事実である。
 しかし、この系統のコミック・エッセイを作り出した他の作者たちと違って、『ツレがうつになりまして。』以後も彼女は旺盛な創作活動を続けている。それは彼女が、個別の作品を超えて、彼女自身に関心を持つ読者を獲得したことを表しているはずだ。
「ツレ」こと望月昭は、出会ってすぐに彼女の才能を感じたという。曰く、「読み手の目線をきちんと意識して描かれている。セリフをこういうふうに読んでいくだけで、だんだん客観的にさせられる。そして左端のセリフがオチとして効いている。脱力して笑える」。(『こんなツレでゴメンナサイ』 p136)。そのような「客観(性)」「脱力(感)」が彼女の作品世界の中央に位置し、読者を引き寄せているのではないか。それこそが、「これってあたし!」に顕在化/潜在化する「欲望」に代替する彼女の魅力ではないか。
 彼女の「客観(性)・脱力(感)」とは何か――。

 

  (明日の朝7時半公開のⅡ章の二つめのパートに続く。)