「普通」の不通、「フツー」の交通

  細川貂々論

 

Ⅰ 普通の「欲望」の不通 (あたふた三部作から)
      『どーすんの? 私』、『びっくり妊娠 なんとか出産』、

   『またまた どーすんの? 私』

     (3分の2)

 

 このような視点から考える時、作者と読者及びマンガ史を繋ぐ、二つの興味深い結び目が我々の前に現れる。
 まず第一の結び目として、先行漫画に対する彼女の示す嗜好性。それは、「少女マンガ」に包摂されにくかった彼女の感性の所在でもある。
 「ツレ」こと望月昭によるエッセイ『こんなツレでごめんなさい』(文藝春秋 二○○八年四月)には、絵の学校で二人が出会ったころの彼女のマンガに対する好みが述べられている。――「将来の相棒になる女性の漫画の好みは『吉田戦車』だった。僕が代表作しか読んでいないことを知ると、デビュー直後のマニアックな単行本を何冊も貸してくれた。(……)彼女はセツ・モードセミナーに来てから、『ガロ』という前衛的な漫画誌に掲載されている、いわゆるガロ系と言われる漫画に凝っていた。念頭にあったのは、きっと、つげ義春先生の漫画だ。他に高野文子さんの諸作品にも影響を受けていた」。もっとも、この文の間に細川貂々が挟み込んだイラストによると、「ガロ系」を彼女に紹介したのは望月自身だというが(pp137―141)。             
 ここで重要なのは、「少女まんがしか読んだことがなかった」と言っている細川が、「吉田戦車」、「つげ義春」、「高野文子」という、それぞれに固有名で語られるにふさわしい存在感を持つ先行者たちへと繋がる感受性を表明していることである。彼女の漫画家としてのキャリアの出発は、「くらげ」(「ソラのさかな」)や「とかげ」(「とかげのしっぽ」)を中心に据えるように、少女漫画向きとは言いがたい嗜好を示している。なんとか掲載誌の読者向き(と当時の細川とその編集者が考えた)のフォーマットに入れ込もうという努力が感じられはするが、それで有効な紐帯を読者と結ぶには至らなかったのは明らかだ。やがて彼女は、「パンダ」によって「ねたみ」を表象するというねじれ(ひねくれ)を含んだマンガ(『ねたみパンダ』)を生み出す。それほどに、漫画家として当初目指していた少女マンガの読者の好みから外れるところに、彼女の感性は結びついていたわけだ。
 もう一つの結び目は、彼女の漫画読者としての世代的な刻印だ。宮台真司はかつて、少女漫画を、少女たちのコミュニケーション・モデルを提示しているものとして、三種に分けて論じた(共著『増補 サブカルチャー神話解体』ちくま文庫 二○○七年二月。なお、初刊は、パルコ出版 一九九三年十月)。彼による少女漫画の三タイプは、それぞれにそのイメージを代表する作家たちの名前を付して区分されている。その中に、「里中領域」と名付けられた「大衆小説的」なものと、「萩尾領域」と名付けられた「西欧純文学的」なものと並んで、「岩館領域」と名付けられた「私小説・中間小説的」なものが挙げられている。
 宮台は「私小説・中間小説的」なものとは「現実の〈私〉やその周りの〈世界〉を、どう解釈するかが問題となって」いるものだと定義する(前掲書中「『少女マンガ』分析論」)。「里中領域」の作品群のように読者から乖離した設定を持たず、「萩尾領域」のように西欧文学的な高踏ぶりとも無縁であること。この「岩館領域」は、〈乙女チック〉=〈これってあたし!〉という性格で定義される。特に変わったことのない「私」=取るに足らない特徴しか持っていない「私」が、自分の周囲の現実を認識し、生きていく。この普通さこそ〈私小説的〉なマンガの核をなしているのだと、宮台は解釈している。彼に拠れば、この領域の出現は、一九七三年ごろである。そして、この〈乙女チック〉=〈これって、あたし!〉の全盛化にコミットしたのは、当時の小・中学生だと、彼は言う。ならば、一九六九年生まれの細川貂々が〈私小説的〉なマンガを描き始めるのは、世代的に説明しやすい影響関係にあると言える。
 たしかに、『どーすんの? 私』から、『びっくり妊娠 なんとか出産』、『またまた どーすんの? 私』に至るまでの作品は、周囲の現実へ「私」が対応することに追われる。その後追い的な認識の展開によって彼女が自分の直面する現実を、そして自分自身を、定位し直す。超人的な個性や高踏な文学性から離れ、特に秀でた所のないありきたりの人間たる「私」が振り回される日々。これを読むとき読者に惹き起こされるのは、〈これって、あたし!〉的な共同性に違いないだろう。これはさらに遡れば、呉智英が戦後の新聞連載マンガ(『サザエさん』、『フクちゃん』など)に対して述べた「平均的読者が最も感情移入しやすいキャラクターを設定し、後は、それにからませて時事風俗を描くという定法」に則り、「いくらかは面白くなければならないが、面白すぎることはもっといけない」との指摘まで連なっていく(p128 『現代マンガの全体像 増補版』 史輝出版 一九九○年七月)。そのような視点からも、確かに細川貂々作品は、宮台の言う「私小説・中間小説」的領域に据えることができるものだ。
 以上の二つの結び目が確認できる。すると、細川貂々作品の意外な〈欠落〉に、我々は気づく。――細川作品には、「私小説的」なマンガに含まれる強い磁力がない。「欲望」が不在なのだ。

 

   (明日の朝7時半公開の「Ⅰ」の三つめのパートに続く。)