「普通」の不通、「フツー」の交通

   細川貂々論

 

Ⅰ 普通の「欲望」の不通 (あたふた三部作から)
      『どーすんの? 私』、『びっくり妊娠 なんとか出産』、

   『またまた どーすんの? 私』

               (三つに分けたうちの一つめ)
      
 細川貂々は、『ツレがうつになりまして。』(幻冬舎 二○○六年三月)のヒットから間もなく、『どーすんの? 私』(小学館 二○○八年一月)というコミック・エッセイを刊行している。「『やりたいこと』が見つからない」と単行本の帯にあるように、自らの進路の不鮮明さに迷う若い女性の姿が描かれている。一巻を通して、読者は彼女の成長を見守ることになる。いわば、一種の教養小説的なものだ。
 彼女は、カロッサの『青春変転』で主人公の青年が「医学」を志すように、絵の学校への入学を果たす。そこで「ツレ」に出会うまでの彼女の遍歴――主人公の成長の軌跡を描き出すためのプロローグ。この作品はまず、そう位置づけられる。
 ところで、この『どーすんの? 私』には、その続編である『またまた どーすんの? 私』(小学館 二○一○年三月)があり、二冊の間に『びっくり妊娠 なんとか出産』(小学館 二○○八年十一月)を挟んで、三冊でひと繋がりの世界を作っている。この世界は、読者に忘れがたい存在感を持つ。「病気」や「子育て」のような外在的なテーマを持たないままに。喩えれば、細川貂々の作品世界という船のバラストとなっているのだ。
 そのバラストとはいかなるものか。

 細川貂々のコミック・エッセイ群では、「てんさん」、「てんちゃん」などと呼びかけられる「私」と、「ツレ」「ツレさん」と呼びかけられる彼女の夫(友達→恋人→夫)の二人を中心とした世界が描かれる。この二人は、どの作品でも常に同じキャラクターと見分けられる同一の絵柄である。特徴としては、二人とも、ほとんど鼻が描かれない。彼らを取り巻く世界の人たちは、鼻を持つことが多いのに。たとえそれが、一本の筋に過ぎないにしても。
 それは、キャラクター造型上の彼女たちだけの特殊さだ。やがて彼女たちの世界に登場することになる赤ん坊(チート君)ですら、出産後、病院から家に帰るためのタクシーに乗っている時点(『びっくり妊娠 なんとか出産』のp139の最後のコマ)で、すでに鼻が描かれているのに。なぜか彼は、鼻筋はないが二つの鼻の穴だけはある存在なのである。四方田犬彦の指摘(『漫画原論』所収「鼻の変遷」 筑摩書房 一九九四年六月)に拠れば、「顔」というユニットの中で、キャラクターの心情の表象からは最も遠い「鼻」。彼の見解に従えば、様々な心情を見せるべき中心キャラクター二人の基本表情を簡素化するために、この省略はあえて行われていると考えられる。
 その簡素化を通して、作中人物がそのまま実際の作者の人格に結び付く。細川貂々作品への〈リピーター〉は多い。レビューなど見れば、その多数は作者と作中の〈私〉を直接結び付けているように思われる。つまり、この同一性の高いキャラクターが、作者―読者の紐帯となっていることは確かだ。ならば、作者自身とその読者に先行し、作品を通してのコミュニケーションを可能にする磁場がすでにあったはずだ。

 

 (明日の朝7時半公開の「Ⅰ」の二つめのパートに続く。)