「普通」の不通、「フツー」の交通

 細川貂々論

 

序 寛解のコミュニタス

 (三つに分けたうちの一つめのパート)

 細川貂々は、エントロピーの増大(が、人間の精神や社会に関する思考に及ぼす比喩的な影響)に抗してユニークな「まんが」を描く。作者の世代のスティグマを露わにしつつ回帰する危機に応対するのが、その作品群の主題である。応対とは、不確実性を不確実性として認めた上で、それらをリスクのように確率的に囲繞する試みである。私がここで言う「不確実性」と「リスク」とは、フランク・ナイトの用語に依拠している。すなわち、確率的に思考できる危機(=リスク)と確率的には思考し得ない一回限りの危機(=不確実性)を分別して考えている。したがって、「不確実性」を「確率的に囲繞する試み」などは、厳密には「誤読」であり、両者は背反する危機意識を表すものとすべきである。しかし、具体的な作家・作品を扱うために、ここでは概念の「相互乗り入れ」を敢えて行う。我々の日常意識に接遇することを目指して。
 細川貂々の作品群で回帰する危機は、主に三つの様相として現出する。「作者自身の自らの生の方向性の無さ」「ツレの病気」「周囲の環境からの乖離・孤立」という三種である。それらはいかなる場合も癒やされず、むしろ常に精神のハザード・マップを書き換える力となることで、自らの存在をテクストの辺縁へと沈める。細川貂々作品群の新しさは、こう言った辺縁からの中心の浸潤を作者がごく自然に受け入れていることにある。
 この辺縁性は、作品創作時の貧しさとして認識される。――「うつ病」を煩った夫(「ツレ」)の会社のコンピュータは、頻繁にトラブルを起こす。客からのクレーム処理を担当した彼の心は深いダメージを受けてしまう。我々の生活は、新しい何かが生まれれば、そのために膨大な、ほとんど非人間的な処理を担当する人間を生み出す。それが新しいテクノロジーに拠る変化なら、人間の精神が追いつく前に、法や規制や道徳との軋轢を生む。ラカンの用語に従えば、その軋轢が「現実界」が人に自らを開示する亀裂となり、故にそこに狂気が生まれる。その狂気を促される人間こそ、この世の中の貧しい立場なのだ。
 この「貧しい立場」とは、アマルティア・センの言う「潜在能力(ケイパビリティー)」の未開発を指す。貧しさとは、二重の側面を持つ。まず第一に、必要なものが手に入らないこと。第二に、その時に必要なものしか手に入らないこと。この第二の貧しさこそ、潜在能力の未開発に関わるものだ。