釜石大観音という仏様 — 本BLOGの見出しの仏様 | 瀬川爾朗blog

釜石大観音という仏様 — 本BLOGの見出しの仏様

平成23年3月に起こった東日本大震災では、岩手県の久慈から宮城県にかけて、三陸沿岸一帯が過去1000年以来と言われる大津波に襲われ、家屋が破壊され、数万人の住民が命を失うという被害を受けました。

これに匹敵する地震は、紀元869年(貞観11年)の三陸地震:マグニチュードM=8.3 であったと言われ、地震のことは何も知らないという宮城県の名取市で、良く調べると、1100年前の地層に大津波の跡が残されていた、ということが分かって来たのです。

日本の地震学は世界的に見てもかなり進んでいるのですが、一つ大きな盲点がありました。

日本は太平洋を取り巻く環太平洋地震帯上にあり、そこではたびたびM=9に及ぶ巨大地震が起こっている訳ですが、過去1000年の内で、M=9に匹敵するような大地震の記録がなかったのでしょう。

日本では、地震よりも戦争による被害の方がより印象的で、歴史家の真摯な記録がなかったのではないかと考えられます。

もっとも現在のように、多数の高性能地震計が国中に配置されているのとは違い、1000年前の地震の規模を様々な傍証によって推測しているので、Mの評価はかなり不正確であったとは思います。


さて、

釜石と言う街を見ると、大昔から地震と津波で痛めつけられていたのですが、小さな漁村であったために矮小な扱いを受け、多少の被害では記録にも残らないような状態ではなかったかと思います。

むしろ、記録に残る釜石の災害と言えば、幕末にかけての米英ソ等の日本侵略に向けた外国船の侵攻、そして、大東亜戦争敗戦時の敵国航空機、軍艦の爆撃による町の壊滅、の方が強く印象に残ったのではないでしょうか。


釜石大観音は昭和45年4月8日、当時の石応禅寺17世住職雲汀晴朗の悲願によって創りあげられた像高48.5m(鉄筋コンクリート製)の仏像であります。

この観音の台座がすでに海抜100m程度の所に在るため、大観音の眼では、海抜150mほどの高さで、海面を見下ろしているのです。

建造者の言によれば、過去数100年間に三陸沿岸の住民が蒙った手厳しい、心、肉体、財産等の被害の苦しみを解放すべく、海をじっと見つめている姿を表しているのです。

釜石は周辺市町村を含め、過去150年を見ても、戦争、津波、漁船沈没等によって数万人の命が失われ、その遺体が、誰からも顧みられずに放り出されて今日に至っているのです。

これらの霊に報いなければということが、雲汀晴朗の最大の悲願であったと考えられます。


現在、

釜石大観音は第18世住職 都築利昭氏 により維持されております。この大観音の維持管理は参拝者の数にも支配され、日本の景気如何ではその維持が大変に難しい時があります。

大観音完成当時、観音へ進む道々には、参拝道があって、道沿いにお店が立ち並んでいました。

それが国の不景気によって解散してしまったのです。


しかし、

ごく最近のニュースでは、釜石の街の若者が参拝道を立て直そうという運動を起こしているということで、大観音様が釜石の景気の振興に一肌を脱ごうとしているのかと思い、私は涙の出る思いであります。


平成27年9月1日  瀬川爾朗