人生学び続けます。子供が生まれて、英語でしゃべる子供からおおーと学ぶことはまだまだ多い。

学ぶっていうか、今まで必要なかったから知らなかった、そして、子供が大きくなったらきっとすぐ必要も無くなりそうな、しかも知っていてもあんまり使わん、みたいなこと。

動物の鳴き声。

国によって、言語によって、鳴き声、違います。笑。動物は同じ動物なんだから、それが発してる音は同じようなもののはず。そこまで耳に聞こえ、残って、表現する方法が変わるか!というくらい違って面白いものです。

まず

What does XX say?

XXは何て鳴く?

日本語のように吠えるとか鳴くとか言葉に差はないですから、こう言っておけば大丈夫。子供が大好きな遊びです、大人がXXの動物をどんどん言ってあげて、これは何てなく、あれは何てなく?って私の2歳と5歳がどっちもできる遊びで、正直勝ち負けも間違いもないので大人が動物の名前を思いつく能力が尽きた時がゲームの終わり。

多分沢山の人が最初に知っているのは犬、とか、雄鶏、だと思いますが、もっともっと、そんな音じゃ鳴かんやろーってツッコミ満載。な、英語の動物の鳴き声。そして、突っ込んだら、絶対、日本語ではなんて鳴くのか聞かれます。そして、披露するとそれもがっつり突っ込まれます笑。

英語で、つまりこの音をアルファベットで表現する方法、あるんでしょうが、そんなに書く必要もないし、目にすることもないので、カタカナで耳に聞こえるように表現してみました。


雄鶏 コッコ ドゥルドゥー
犬 ウォッフ ウォッフ
猫 ミューウ ミャーウ
ロバ ヒーホン ヒーホン
馬 メヘェーーメヘェーー
牛 ムームー
羊 バァーバァー
ヤギ ベーベー
鶏 クックック
カラス ガーガー
豚 オインク オインク
魚 ゴブゴブ
カエル ラベッラベッ

だいたい、カエルの日本語でゲロゲロも怪しいものですが、小さい子がカエルの真似してベベッとか言いながらはねるの可愛いですけど、実際カエルってどんな鳴き方するっけ?

そして、狐。狐ってなんてなく?ってやつなんですが、これは子供が大好きでずっと我が家でもユーチューブ画面がテレビで重複されましたので。英語と全く関係ないけど。



日本の赤ちゃん言葉で犬のことをワンワン、と呼んだり、車をブーブーといったり音からそのまま単語になるものありますよね。英語も同じです。うちの子は犬のことをウォッォウォと呼んでいました。ウォッフウォッフも正確に言えなかった時の舌足らずな赤ちゃん英語。

知っていても、きっと日常会話で必要になることはない、よね。でも子供がいたら、是非遊んであげてください。日本語でコッケコッコーって鳴いてあげると、違うーと大喜びで訂正加えてくれます。

エンドレスで、うざいけどね。
海外長いと、頑張ってるねーって言われたことも、素敵ですねーって言われたこともあります。そして、何が一番大変ですかーとか辛かったですかーとか聞かれることもありますね。

海外だったから辛かったことなんてないと思う。

辛かったこと、大変だったことは大体世界のどこで起こっても大変だったし辛かったと思うから。

言葉が通じなかった時、とか、辛くはなかったと思う。イライラしたけど笑。

私の第二子の妊娠出産話です。ご興味のある方だけ。

娘を妊娠した時私は2歳の息子を抱えて韓国に住んでいました。韓国に引っ越してきて、身振り手振りと片言の英語で(こっちの英語が片言だったわけじゃなくて、韓国の先生達が片言だったのでそのレベルに合わせて。)1歳半の息子を韓国の地元の保育園に放り込んで、私は週に1-2回でしたが韓国語の授業を1時間程度とっていました。片言でも買い物やレストランではないよりマシな韓国語。韓国の若い子たちは英語力ありますが、やっぱりどこでも通じるわけではないし、日本人の私は間違いなく韓国人だと思われて夫や息子の通訳だと思われ韓国語マシンガントークで話しかけられることの方が多かったので、

日本人です、韓国語は少ししかわかりません。

みたいなことは韓国語で言えるようになりました笑。

生活が整って、韓国で2-3年は落ち着けそうだという夫の仕事側の状況を見てから、じゃ、二人目欲しいんだったら今だねと、ありがたいことに二人目を妊娠しました。引越し多いと、どのくらいの期間どこにいれるかで子供を産む時は決まります。笑。新生児抱えて引越しも嫌だし、妊娠中に国をまたいで引っ越して病院変わったりするのも大変ですから。

びっくり妊娠じゃなくて、超計画妊娠なのですぐわかります。妊娠5週目でわかって、それからすぐに病院に行っても妊娠おめでとうございます、って言われて終わるだけなので、一人目で興奮しきってすぐ病院行ったりするのはよくわかるんですが、普通は10-12週から妊娠の検診に定期的に行き始めます。二人目で余裕があったのと、一人目はアメリカで産んでいたので、もちろん引っ越してきたばかりの韓国で産むのはもちろん初めてなわけで、どこの病院に行くか、など考えないといけなかったので10週になるまで待って選んだ病院に行きました。

病院を選ぶ基準は、アメリカにいても、その保険を持って海外にいてもですが、基本的に

どこの病院で保険がどの程度効くか。

が一番の決め手になります。どこの病院だと、自分の持ってる保険がどの程度効くか。そして、その病院のリストからどんな病院か、どのくらいの規模か、家からどのくらいの距離か、どんな評判があるか。。世界中どこでもきっと病院なんか選ぶ基準は同じですから、できるだけ便利ないい病院を選びます。私の場合は韓国語は喋れないも同然でしたから、英語の通じる病院であることも重要でした。日本語しかダメだったらそれも基準になります。多くの病院では通訳サービスという選択肢もあります。もちろん大きな病院に多いサービスですし、お金がかかることもありますよね。そういうところを見ます。

最初の妊婦の初検診ですよ。エコーとって、あ、確かに妊娠しています。おめでとうございます、次はいついつ(大体一ヶ月後とか)に検診に来てくださいね、この病院ではこんな妊婦や出産の教室やサポートしていますので、興味があったら参加してくださいね、とかですよ。そうだと思っていたら。

その最初の検診で

流産の可能性が非常に高いですので、家で絶対安静にしてください。

でした。私は一人目の時もつわりがひどくて一人目は四ヶ月吐き続けて寝ていたので、二人目でもしもつわりがひどかったら2歳の息子をどうするよ、っていうのは大体ずっと課題だったわけですが、二人目もつわりはひどかったんですが、多分気力ですね。っていうか、寝てられないですものね、2歳児飛び跳ねてますから。気持ち悪くても這って行ってテレビだけでもつけてテレビを見ている息子を眺めていたり、できるだけ夫に保育園に迎えに行ってもらうようにして寝ていたり。一人目の経験から、何ヶ月も寝込んでもつわりは病気じゃないので死にはしないのだな、と学んだので、そして、ある日さらっとそのつわりがいきなり消える時があるのだというのも学んだので、つわりの初期は夫に助けてもらいながら最初の検診まで来たわけです。

そこできた、絶対安静。

無理ですね。そこら辺で海外生活の辛さが出てきます。両親も義両親も海外なわけで、ずっと長く永住している場所であればその場所で深く付き合って培ったネットワークがあるでしょうが、私たちはいつも移動するタイプの海外生活なので、最終的に夫と自分と子供しかいないわけです。でも遠くの親戚よりも近くの友とは言ったもの。まだ友達になって日も浅い友達に手伝ってもらい、どうしようもない時は、絶対安静と言われていようが動いてはいけないけれど動けないわけではないので車で15分の距離まで保育園の送り迎えだけは出たこともあります。送っていけなくて、1日息子に家に居られる方が体に悪いですよ?夫に息子を保育園に送ってもらって、保育園の友達のママさんに頼んで一緒に引き取ってもらって夫の仕事が終わって迎えに行けるまで一緒に向こうの家で預かってもらっていたこともありました。その状況を保育園の先生に韓国語で説明できなくて、英語の喋れる韓国人のママに英語で説明して、保育園に電話してどういう風に対処して欲しいのかを伝えてもらったり。こういう状態になると、掃除するとかご飯作るとかどうでもいいことになります。韓国はどこでも安価に温かいご飯を食べれる食堂のようなものはいっぱいありますから、家で夫がご飯を作らなくても買ってくればいい、食べに行けばいい、ということです。確かにこの点、アメリカじゃなくてよかった。アメリカだったら外食超不健康笑。

そして、1-2週間後出血。

ママだったらみんなわかる。妊娠初期に出血したら病院行きです。もう流産していることもある。でもわからないからとりえず救急に。そのまま入院。

流産、してなかったんです。それから先もずっと出血を繰り返すことになるんですが、入院して、点滴で絶対安静で落ち着いて一回退院。そして2-3日後にまた出血、しかもまだ妊娠初期なのにお腹が張ってもうつまり軽い陣痛ですね、また救急でそれからずっと入院でした。

私には自由人な妹がいます。夫は仕事だし、友達に2歳の息子を無期限で頼むわけにはいかないので、妹に韓国に来てもらって、面倒を見てもらいました。そこで問題、私の妹にしてみても、そこは外国なわけ。自分たちで選んで(仕事だからだけど)海外を移動している私の家族と違って、妹は姉に呼ばれて甥っ子の手伝いに来たらそこが外国なわけ。私の妹、強い。国際免許証取ってきてね、と言っておいたので、私の入院中息子の保育園の送り迎えなんかをしてもらったわけです。道もわからない、日本で運転している妹ですが韓国は左ハンドル右通行でアメリカと同じです。ご飯作るにも買い物に行かなきゃ。韓国は歩いて出て行けるので、って言っても外国語やし。でも私は入院してしまったので、どうやって彼女は生きていたんでしょうか。でも子供もいないし、自分で住みたくて来たわけでもない外国で、私の妹は息子と私の夫とペット3匹の生活してくれました。

まず私の選んだ病院が車で40分かかるところだったんです。一ヶ月に一回通う予定でしたが、まさか入院するつもりで選んだ病院ではなく。そして、韓国内でも大きな総合大学病院でした。もちろん産婦人科も産科があり、だからこそそこに決めて行き始めたんですが、小さな産院とかじゃなくてよかったわけです。産科だけじゃなくて、総合病院だからもちろんNICUもあり(この時にそんなところまで考えてなかったですが)、手術も可能、すべての総合的な検査も可能な場所だったということです。結果的に入院してしまった病院が総合大学病院でラッキーでした。転院したり、という手間が省けたということです。

でもその車で40分の距離に入院してしまった私、家の周りなら多くはないにしても少しは友達がいたわけです。夫もどっちにしても家と仕事場の往復をしているわけですから、病院が近かったらよかったけれど。夫は私に会いに、私に息子をあわせに、息子にママここにいるんだよってあわせるために、この時点でそんなつもりはありませんでしたが、三ヶ月の入院期間、毎日、計3日間どうしても来れなかった日を除いて、毎日片道40分の距離を仕事が終わった後来て、長くいる時もあれば、本当に息子が病室でおとなしくしていられる10分だけ私と話をして、そのまままた40分の距離を車で帰ることもありました。

部屋は相部屋が普通だったようで、もちろん、相部屋が安く、部屋も大きく人数も多くなればなるほど安くなるようです。2人部屋、4人部屋、6人部屋くらいまでのオプションがあったようです。私は自分で選んだわけではなかったのですが、アメリカは基本的に医療費が高いことでも知られていますが、その基準が韓国の病院でも出るということで聞かれることもなく病院側から勝手に個室に入れてもらえました。一人部屋のしかも、政治家の先生などが泊まられるようなスイート部屋(だと後で知ったんですが)に入院になりました。絶対安静で部屋から出ることもなかったのでむしろ他の部屋を知りませんが、大きな車椅子で出入りできるシャワールーム、トイレ、洗面台が付いていて、片面窓で裏庭に面していて、角に小さな冷蔵庫、そして電子レンジが付いていました。ありがたかったのが、ソファーがあって、それと別に背を倒して完全にダブルサイズベッド程度のマットレスのようになるソファーベッドがあったんです。それプラス、もちろん病院ベッド。いわゆる電動で背もたれの角度が調節できたり、非常用のナースコールのボタンが付いていたりする、あれ。それに大きなフラットスクリーンのテレビ。部屋にあったのはそんなもの。

病院のベッドなんて快適なものじゃないと思うんですが、韓国のベッドって一般的にむちゃくちゃ硬いんです。硬めのマットレスを好む人とか、ふかふかのがいいとか、どれが体にいいとかいろいろあるんでしょうが、好みの問題ではなく、韓国のベッドのマットレス、むちゃくちゃ硬い。それが病院のベッドにも適用で、私には寝れたものではなく、ソファーベッドの方がまだ楽だったので、ずっとソファーベッドに横になってました。

朝昼夜もちろんご飯が出ます。妊婦なので絶対安静だろうが点滴していようが食べてはいけないものもなく、外部から持ってきたものでもなんでも制限があるわけじゃないので食べれるわけです。洋食、か、韓国食かというオプション。韓国料理大好きですが、韓国の病院韓国食となるとちょっと形相が変わります。食べれないほどまずいわけではもちろんなく、日本人の口に合うものもありますけど、辛いものも容赦なく出ていました。

韓国は病院だからって味付け淡白になるわけじゃないんだね。

普通にキムチにキムチチゲに、もう病院食は家庭料理に近いのでしょうから、レストランで料理名を言って出してもらうようなお料理じゃなくて、名前のわからない料理がいっぱい出ました。煮物、炒め物、揚げ物、みたいな分類くらいしかできない韓国料理。必ずご飯が出るので日本人にはありがたいですよね。

洋食、は、韓国料理ばっかり毎日食べれんよ、っていう時にありがたい。韓国に住んでましたが、韓国人のいる家庭じゃないので、外に韓国料理を食べに行く以外で家で韓国料理を作ったりはしなかったんです。日本食だったり、いわゆる洋食的なアメリカ人の夫も食べるわけですから、アジア料理ばかりというわけでもありませんでした。韓国料理は大好きですけれど、それでも毎日朝からキムチのでてくる病院食は正直辛かったので、朝は洋食にしてもらったりしました。必ずフルーツがついてきたり、ヨーグルトがついてきたりで軽く食べれるものもあったので。

結構バラエティーがあって一週間は綺麗に重なりなく食事が出ていましたが、妊娠絶対安静、入院期間長い。ご飯はリピートされることがわかりました。やっぱり同じメニューに戻ってローテーション。そうだよね。やっぱり。パパ、なんか買ってきて。ってなります。あと、妹に、家でお惣菜を(辛くないの)作ってもらって、ご飯は韓国食には必ず白ご飯が付いてきたのでそれと一緒に食べたり。

絶対安静、することない。フラットスクリーンの巨大テレビがかかってるわけ。なんて贅沢な。でも全部韓国のテレビ。この機会に韓国ドラマでも制覇できたら。素敵だったんですが、なんといっても韓国語わからない。韓国ドラマじゃんじゃんやってるのに、字幕付いてないよー涙。アメリカでもテレビ見ない人なんですが、本当にすることないとなれば見ます。でもこれが韓国での入院、の一番辛かったところ。テレビの韓国語わからない。がーん。アメリカや日本のドラマのDVDをノートパソコンの小さなスクリーンで見ました。大きなテレビがあるのに。笑。

そんな食事やテレビの話。それは置いておいて。絶対安静で入院していたわけですが、24時間点滴投薬をしていたので退院できなかったんです。日本で数ヶ月入院というケースもよく聞きますが、外国はとにかく入院は最悪の場合です。出産しても普通は翌々日には退院してますよ、外国の病院。絶対安静も例に漏れず、基本的に家で絶対安静です。私も最初は家に帰されて、救急から病院に戻ってきました。家に帰れなかった理由は点滴が外れなかったからです。

ご飯のこととか書きましたが、妊娠十数週という早さで前駆陣痛が来ていて、つまり、それで出産してしまえば早産にもならずにただの流産です。それを抑えるために張りを抑える点滴をしていたわけです。2-3種類の薬を量を変え組み合わせを変え投薬していました。一種類、よく効く薬があって、張りが収まるわけです。すると私への副作用が強くて起き上がることもできない、吐き気がする、頭痛がする、で、生活できないわけです。妊婦なので食べないといけないですけれど(妊婦じゃなくても食べないとね)吐き気がして寝たきりで食べれない。その薬を減らして代替で別の薬増やすと副作用は和らぐものの、張りがひどくなって赤ちゃんが危ない。そのバランスをずっと調整していました。張りがひどくなって陣痛が始まってしまうと赤ちゃんが危ない、副作用がひどくて母体が弱っても赤ちゃんが危ないっていうか、成長しない。

多分入院したばかりの時はまだつわりも残っていて、副作用もひどくてご飯とかどうでもよかったですけれど、食べないといけなかったので、ご飯のことはしっかり覚えています。食事がすごくプレッシャーでした。食べれなかったから。しばらく薬の調整を続け、起きている時はあまり副作用が酷くなく生活できる程度のバランスが見つかった時があったんです。気分は大丈夫。っていう感じ。

そこで真夜中に大出血。出血で、濡れていたので破水したのか流産したのかと思って飛び起きたことがありました。ベッドの上が血の海(って見たことないので多分これは大げさな言い方だと思いますが。)かと思ったくらいの出血で、パニック。いや、パニックって、病院に入院してるんだから、パニックボタンがあるやん。で、パニックボタン(ナースコールね)を押します。数秒後には看護婦が飛んできて、エコーで赤ちゃんは、まだ、いることを確認。心音がある、から、大丈夫。って本当かいな。着替えて、とりあえず朝まで寝てくださいね、って、寝れんよ。

そこからは毎日エコーを撮っていました。赤ちゃんを見ていたわけではなくて、確実に妊娠に問題があったわけですけど、その状況を見ていました。毎日毎日エコーをとり続けたのに、私はそんなに娘のエコー写真を持ってません。写真なんかプリントアウトしている場合じゃなくて、それ以外に重要なことがあったからってことなんでしょうけれど。お金払わないといけないわけじゃないんやし、もらっとけばよかった、エコー写真。もうあまり状況が良くならなくて、悪状況で停滞してしまった時は心音だけ聞いていました。大丈夫、まだ、元気。って。

入院した最初は状況が良くなれば家に帰れると思っていました。夫も息子を連れて毎日毎日往復1時間半を私の顔を見るだけのために通ってくれました。入院している私の方は病院側が基本的に世話してくれてるわけですから、大丈夫なわけですけれど、個室で(相部屋でも言葉喋れないのでストレスになっただけだと思いますけれど)誰とも口をきかずに1日が終わる私の生活を病院側も夫も心配していて、実際ただでさえ妊娠生活って敏感になったり感情的になったりしますよね。ホルモンのせいよ、って言ってしまえばその通り。それプラス、生まれてない赤ちゃんよりも、2歳で家に置いてきてしまった息子に会いたくて会いたくて(普通に終日保育園にやってましたけど)、会っても抱いてあげれなかったんだけど、息子の顔見たくて泣いていた私の精神面を心配して、なのか、その精神的なことがお腹の子に影響するのを心配して、か、良くも悪くもつながっていたので笑。周りも精一杯私が落ち着けるように頑張ってくれたんだと思います。でも2歳児が病室に来ても遊べるものもなく、一緒にやってあげれることもなく、話をしてくれるような年齢でもなく。

先生も一番心配していたのが外国の病院で精神的に落ち込んでいた私の精神面で、できるだけ薬を減らしてくれて副作用を軽くし、少しでも状態が落ち着いたら数日でも家に帰るように、と言ってはくれていたものの、もう副作用と妊娠の週数を見ながらみんなの我慢比べて的になってきていました。

絶対安静になってから数ヶ月抱いてもあげられていなかった息子は私が入院している間に3歳になりました。ケーキも焼いてあげれなかったし、プレゼントも買いに行ってあげれなかった。妹に、アイスクリームケーキにしてあげて、って買ってきてもらって、病室で一緒におめでとう、って祝って。

そこでずっと息子と、家の猫2匹、犬1匹の面倒を見てくれていた妹、韓国に観光ビザで入ってきていたわけなので3ヶ月で観光ビザが切れるんです。あれよこれよともう2ヶ月半以上軽く経っていた時に、退院の見込みが立っていなかったので、一回日本に帰って、もう一回韓国に帰ってきたらまだ3ヶ月居られる、ということで一回日本へ帰ってもらうことにしました。そんなに長くなると思わず、手伝いに来てよー程度で連れてきていたので日本でしないといけないこともあるだろうということで1週間くらい韓国を離れることになりました。

保育園のお迎えは4時頃だったので、さすがに夫もそんな時間に仕事を離れることはできないので、また友達に頼んで妹のいない間の迎えや、夫が迎えに行ける時間まで一緒に遊んでいてもらえるようにして。

私はまだ予定日まで4ヶ月くらいあるわけで、そんなに長く入院してられないと本当に落ち込んでいましたが、そんな問題よりも先に、ずっと投薬していて副作用もあった私の方の肝臓に問題が出始めているということで、毎日血液検査をすることになりました。ただでさえ点滴投薬しているので、3日に一回は点滴口を変えるために右手も左手も穴だらけ、痣だらけだったので、この血液検査は辛かったですね。そして、やっぱり血液検査の結果が悪い。悪いって、薬で私の体が弱ってきているという意味で。

そして妊娠23週目に入った時、もういつ生まれても活かせてみせる、と先生が言いました。多分、元気づけ、だったんだと思います。英語の達者ではない先生が、頑張って英語で言ってくれた ”We will keep her alive"。医学の進歩でありえない小さな未熟児が生きていけるこの時代。私が入院していた時に、そりゃ、暇だから携帯いじりながら変な知識が増えていくわけです。流産から早産に変わる週数だとか、何周までで生まれたら流産だけど、同じようなものだけれどその週数を超えると届け出を出して死産になるとか、そんな暗いこと調べんでいいやん、って感じですが。そして、生き残った超未熟児のギネス世界記録、そして、韓国にいたので韓国の記録、などなどなど。時間と不安だけあったんですよ笑。

その時点でもう世界記録も韓国記録も通り越していたので(誰も記録更新目指してないので笑、いいことです)、23週というのは医学的に自信の持てる週数のようです。全てに不安はあるけれど、生かすことはできると思う、医学的自信。素晴らしいんですけれど、そんなの母親には慰めにもなりません。

網膜もできてないから失明するかもしれない(28週が目標)。自己呼吸もできないから肺にも問題があるかも(30-32週が目標)。心臓と脳は誰もが一番に心配するところです。全部揃って生まれてきても障害が残るかもしれないという。だからみんなママは何ヶ月寝続けても30週は越えたいと頑張り続けるわけ。

生かせてみせる、は、素晴らしいけれど、ここで生まれてもまだまだ早いので、それを超えてからはステロイドの注射で少しでも赤ちゃんが大きく生まれるように、そして、私がさらに肝臓を守る別の投薬で、陣痛を抑える投薬を続けられるように。投薬を続けるための投薬。。24週くらいだった当時、母子ともにどこまでいけるか、っていうラインでしたが、28週まで頑張ろうという感じでしたね。私がそういったわけではなくて、会話のそこここに28週まで行ったら多分もう出産に持っていくことになるだろうという感じがありました。もうそこまで頑張ったら十分だよねと言う感じ。母体がそれ以上もたないよ。っていう。

そして当たり前のように、妹がちょうど日本に帰っていたその1週間の間に。

25週に入った時、いつものように血液検査をし、いつものように投薬を続け、いつものようにベッドに寝ていると、陣痛が収まらない。薬の量を変え、鎮痛剤も錠剤では効かなかったので注射で。主治医と看護婦がバタバタしばらく格闘していましたが。

もう、陣痛を抑えることができない。

ということでした。3ヶ月。投薬点滴で入院し、陣痛を抑え続けてその時間で大きくなった赤ちゃんに、これ以上時間あげられない。出産します。ということで、ここからスローモーションのように覚えています。

私も電話しましたが、病院側も夫に電話して、ちょうどアメリカの休日で夫の仕事はお休みだったけれど、韓国は平日だったので息子は保育園に出ていて、お迎えの時間とかぶりました。息子を引き取って、誰かに預けてすぐに行く、と聞いてそれが生まれる前最後に話した時だったかな。

迎えに行って、一番近くに住んでいた友達に預けたようです。そしてそのあと、似たような年齢の子供がいる別の友達に、引き取ってもらって。たらい回しにされた息子は何もわかってなかったと思いますが、みんなよくしてくれたよね。

できれば夫が到着するまでギリギリまで待ちたかったのでその旨伝えておきましたが、待っている間に破水してそれ以上待てなかったので手術室に入って、母体の状態が良くないということで、全身麻酔の帝王切開でした。もちろん何にも覚えてません。主治医が産科の長でしたので彼女が執刀してくれて、大学病院で、訓練や実習てきなものを兼ねているんでしょうね、執刀医を含めて私の母体の方にかかっていたのが7人、それと別のチームで生まれてくる赤ちゃんを待ち受けているNICUの医者チームが7人。大きな手術室でしたが、それはそれは大所帯でした。

夫はただでさえ車で40分の距離を、息子の面倒を見てもらえるように手配してから1時間半もかからずに着いたらしいです。私、もう、手術室で意識なかったですが。もちろん入院していた部屋にいるわけでもなく、分娩室でもなくて、完全に別棟の手術室にいたので探すのが大変だったらしいです。英語で怒鳴り散らしたんだか、どうやって見つけたのか全くわからないですけれど、手術室を探し当て、中に入るか?と聞かれたので入ると言って入ってきたそうです。所謂白衣にキャップをかぶってみたいなちゃんとした格好をしていれば、出産ですから、立ち会えます。普通、アメリカでも帝王切開に夫が立ち会うのは普通ですが、半身麻酔で意識はある妻の枕元、つまり頭側で手を握ったり話をしたり励ましたりする役割です。ちゃんとお腹のあたりに仕切りがあって見えなくなっている、それが帝王切開の一般的な立会いです。

それが我が夫、緊急帝王切開、に、始まった後で到着し、しかも私は全身麻酔で何も見えてないので仕切りなどあったものではなかったらしく。何れにしてもドアが下半身側にあって、手術室に入った瞬間に見えたのは手のひらサイズの紫色の塊だったらしい。切り開かれた私から取り出された呼吸もできない娘が生まれた瞬間、ちゃんと見てくれたようです笑。まさかそんなタイミングで手術室に入ってくるか?そして、頭は切れる人間ですが、絶対医者にはなりたくない、と子供の頃から言って親を残念がらせた夫。

血が、嫌い。

よくもったな、という印象。私の手術を見届け、あっという間にいっぱい管を通され人工呼吸器をつけ点滴につながれ、モニターにつながれていく娘をちゃんと見ていたようです。

娘は2時間くらい状況が安定せず、もう、こっちは何聞いていいのかわからないし、できることもない。待つだけ。

私は麻酔から覚めて手術の痛みと鎮痛剤で朦朧としているし。

夫は一体どこで手に入れてきたんだか、コーヒー片手に顔色悪く私の横にいてくれました。

私は動けなかったので、数時間後に状態が安定したからと夫を呼びに来てくれた看護婦と一緒に夫が娘を見に行って、しばらくして帰ってきましたが、携帯で写真を2枚撮ってくれていました。お誕生日の写真、2枚しか持ってないんですが、宝物です。どす黒い、小さな、保育器のガラス越しの生きている娘を写真で見て涙が出て涙が出て。

なんてことしてしまったんだと、思ったんです。

今考えれば、あなた、妊娠初期から問題あって、頑張って生き残れるところまでみんなの頑張りの上で持って行って、生まれて元気に育ったんだから万々歳やん、って感じですが、多分、多くの未熟児のお母さんは、最初に泣きます。まぁ。出産直後だからホルモンだと思ってください。私は、こんなに小さくて、骨と皮で、ごめんねって、ギュって抱いてあげたいとか思っても触りもできず。抱けんよ、そんな小さな赤ちゃん。

私が最初に娘を実際見たのは出産から24時間が経っていました。

娘については。この娘、NICUも転院経験があったり、保育器のまま飛行機乗ったり、面白い(振り返ればってことで)経験をしたので、それもいつか、書こうかなぁ。

そして、手術は経験あったものの、開腹手術は人生初だった私、翌々日には抜糸、退院しました。マジで?3ヶ月以上いた病院、あんなに退院して家に帰りたいと思った数ヶ月。マジで帰っていいんですか?まだ痛いし、歩けないんですけど?あっという間に退院。

びっくり。日本は入院長いじゃないですか。母子ともに問題ない自然分娩でもそのあと1週間くらい入院するし、帝王切開だったらどのくらいの期間入院するんでしょうか?

投薬絶対安静の数ヶ月からくる体の衰えに、私の中では一大手術だった帝王切開。まだ歩けもできないけれど、どんどん回復のために歩くように、と歩行器を渡されて、隣のNICUまで娘の顔を見に行き、はい、退院していいですよ。ってまじですか?すごいなんか微妙な感覚でしたね。生まれるまではすべては私に注がれ、分身してしまえば、確かに私は病気じゃなかったんだから回復すればいいだけ、なんですけれど。

でも当たり前だけど予定日より3ヶ月半早く生まれた超未熟児の娘はNICUにいます。私自身は退院し、翌日から娘に会いに、通院始めました。夫と息子が3ヶ月間私の顔を見るだけに通ってくれた片道40分の距離を、まだ帝王切開の傷の癒えない体で翌日から通い始めました(運転したの、夫ですけど)。

世界でいっぱい超未熟児って生まれています。何ヶ月も入院したり、ずっと絶対安静で頑張ったお母さん、いっぱいいると思います。私の経験は世界のどこで同じ経験をした人よりも辛かったことはありません。海外出産、とか、入院生活、とか、超未熟児、とか、家族がそばにいない、とか、言葉が通じない、とか、いろいろ重なってきっつい思いをしたけれど。私の第一子として海外アメリカで健康児として予定日を越して生まれた長男の出産がそれ以上や以下に重要ということもないです。最終的に、同じ妊娠、同じ出産はないのだなという印象です。そして、生まれてくれれば、過程は忘れないけれど、それが全てです。

世界の、どんな出産を経験したママも、同じ結論に達するのでは。

こんなに長く、読んでくださった方がいたら、ありがとうございました。もう2年以上前の話です。忘れることはないと思うけれど、書いておこうと思っただけです。
前編長くなりました。ブログとしての適切な長さってものを全く知りません。笑

中国の大学に所属して4年の本科生として卒業まで、というのがゴールだったわけですが、中国の大学を卒業してもダメだと思って、中国以外の大学を出たいと思いました。大体、中国に来た理由はこれからは中国の時代で、中国とビジネスをしたいというものだったんですが、それに全然具体的なプランもなかったし、今考えればだからなんで中国行ったんだってことなんですけれど。若かったので。1年で中国語が使えるレベルまでなって、言葉をもっと伸ばすためだけに中国にいたくはなかったのと、中国の大学の勉強法が私には合っていなかった、という理由です。中国人の学生で大学に進学できるのは人口のトップ3パーセントとかです。ものすごく勉強します。みんな寮に入って、留学生寮と違って一人部屋じゃないので、一部屋に8人とか蚕部屋状態です。自分のスペースはベットの大きさですよね。そこに教材を並べて図書館や教室でいつも誰かが勉強しています。私の印象で表現すると日本の超進学高校3年生を大学4年間ぶっ通しでいくような感じです。

私の思い描いていた大学というのは多分欧米の大学だったんだ思います。で、この時点でそう思ったわけですが、欧米の大学がどんなものかも行ってみないとわからないじゃないですか。中国の大学の、受験勉強のような詰め込み型勉強、しっかり日本で訓練されてきましたので、私はどちらかというと向いていたと思います。テストでいい点数弾くのは弾けたんです。問題は、こうやって学んだこと、私はテストが終わった瞬間に忘れていました。忘れない、勉強するのが大学だと勝手に思ってました。笑。その印象がどこからやってきたのか、さっぱりわかりません。

そして、また、大学探し。欧米。で探しました。私はその前にアメリカに行ったことがなかったので、なんとなく自分との相性が良さそうでイギリスを選び、イギリスに渡り、結局そのあとで中国にいたイギリス人の彼氏もイギリスに戻ってきて合流しました。

そんな簡単にイギリス生活始まり。

イギリスで英語しゃべれないと辛い。

そして、ネイティブの人の英語、発音よすぎてわからないー笑。

家を探し、大学を探し、大学に直接入学できないことを学び、その前の予備学校に入学手続きをして。そして、その予備学校が始まる前までの時間で語学学校に行き始めました。書けば一行の文章で表せる過程、英語力ないと相当な時間かけて探し、学び、手続きするわけです。

ロンドンは人種のるつぼです。日本人もいっぱい、イギリス人以外の人口の方が断然大きい。店の店員も移民の方が多い、そして、英語の下手な、英語のしゃべれない人口も多分大きいんです。だからコーヒー買ってもそんなにしゃべらなくても、片言の私を見るなり文章じゃなくて単語になって、観光客相手と同じですね、どんどん仕事を片付けていきます。買い物も日本と同じで交渉したりしなくていいので、お金を払えばいいだけ。笑顔でサンキューでバッチリ終わります。

そしてロンドンはその当時イギリスポンドが強く、どんどん強くなる傾向がありました。つまり、物価がむちゃくちゃ高い。だから、中国のように安いんだしこれもあれもちょっとお金を払ってでも試してみよう、が出来なくて、例に漏れず語学学校であんまり進歩が無く、だからと言って家庭教師のような選択肢は無く。そういう風に選んだつもりはなかったんですが、語学学校、日本人がいませんでした。いいですよ、英語しゃべらないと渡っていけない。でもその学校は南欧系やトルコやイラン、など明るく積極的でしかも若い(私も若かったんですが、そういう年齢じゃなくて、13-16のような子たち)子が英語の基礎がある私にしたらヒッチャカメッチャカ、しゃべれない私でも間違ってるのわかる英語で堂々と喋る喋る喋る。

多分日本人なら皆一回はびっくりしたことあると思いますが、なになに語喋れる?という質問への、うん喋れる、ちょっとだけ喋れる、喋れないという答えに所属するレベルのギャップね。それとか、あーあなた日本人なの、私日本語喋れます、と堂々という人たちの日本語のレベルね。つまり、日本人は謙遜が文化ですから、レベルに関係なく基本的に喋れません、と言ってしまいます、よくて、あーちょっとだけ、本当にちょっとだけ喋れますとか。一概には言えないですけれど、数単語数フレーズ知っていれば、ああ、その言語喋れるよ、と言ってしまえる度胸はないというか、身の程を知っているというか。

筆記と口語の簡単なテストで振り分けられたクラスだったんですから、つまりは慎重に正確になるようにたどたどしく答えた私の英語と、勢いで分量を、でも内容を込めて喋り散らした彼らの英語力、同じくらいだったってことですね。あるある、そういうこと。

そして、語学学校はあっという間に終わり、大学の予備学校に進学。入学前の予備学校で、はい、東アジア系学生の特徴。数字に強い。イギリスの大学進学レベルの数学は、東アジアの高校レベルで軽くカバーできます。数年のギャップはあり、しかも文系だった私でもあっという間に数学は点数稼ぎの教科に。でもそれ以外は何を勉強してもその内容を英語で表記しないといけないので、その教科の能力が劣って点が出ないのか、英語力でちゃんとその教科の能力を表現仕切っていないのか。

まぁ、予備学校というのはそこを調整するところです。語学学校と大きく違うのは語学を勉強するのではなくて、英語を使って他の教科を勉強する、という勉強をするところ。

そして、ここで私が失敗したのが、語学環境を整えるところ。予備学校に通うのは100パーセントイギリスの大学に進学しようとしている外国人学生なわけです。そして、意外に日本人が少ない。私のいた予備学校は私ともう一人の日本人学生、それとイギリスの方に帰ってきた帰国子女の日本人。それ以外、大きく学生人口を占めていたのが。

もちろん、中国人。

中国人に助けられた一年でした。中国人も暗記式、重複練習の賜物の強い試験向けの基礎学力を持っていますから、私と中国人の友達で数学や統計学などのちょっと勉強すれば点が弾ける教科でトップを独占。わからないところも中国語で中国人と話をして、教えてもらい、教えて、中国語の語彙力が増える増える。数学や統計学の専門用語も中国語で話していたわけですから。そして同じく18-20歳程度だった数人の男女、混じれば恋話にイギリス生活の愚痴話に故郷の話に話は尽きない友達なので楽しく、友達ができたという意味では充実した一年。楽しかったです。笑

問題は、英語力、伸びない。

頑張って身につけ、役に立つと信じた中国語と中国での経験、こんなところで大いに役立ち、そして大弊害に。

英語力は怪しいレベルでしたが、他の教科で点が弾けていて、面接もこなし、結局大学に合格、入学することに。

教科書や本を分量読み切れない。論文を書けない。外国人に向けて教えていた大学の予備学校や語学学校の先生たちと違って留学生なんて数人しかいないクラスで、大学の教授、そりゃ、喋る喋る。プレゼンテーション多い上に怖くて話せない。そして、チーム研究やグループ発表が多いので留学生と組むと足引っ張られて点数が下がる傾向あるので基本的に留学生を積極的に入れ込んでチームを組みたい人なんていない。留学生ばっかりで組むと、基本的にみんな苦労しているので点数が出ない。こっちの英語が怪しすぎて困っているのに、イタリア人の教授やロシア人の教授、イギリス人も質問しながら聞いていたくらい、私にはもっと馴染みのない訛った英語でもっとわからん。

こんなの言い始めたらキリないです。

イギリスの大学は3年制です。

この3年後、イギリスの各大学のトップ5パーセントが受け取れるファーストクラスというレベルで学位を取って卒業しました。

みなさんのお役に立つような画期的英語勉強法とか生み出せませんでしたので、普通に苦労しました。笑。でもひどい英語力でスタートして、卒業するまでのこと、また機会があったら書きたいと思います。私が英語を学んだのは語学学校でも英語力を強化するための大学の予備学校でもなく、一番苦労する形で伸びました。