日々の生活~sugar&spice~ -87ページ目

今日で15年目。

私は阪神大震災のとき、ぴちぴちの中学生でした。


(年がバレる・・・)


風邪をひいていて、木・金と学校をお休みしていました。


日曜日の時点でだいぶ治りかけていましたが


月曜日にマーチン・ルーサーキングの「I have a dream」


の暗唱テストがあって


なんとなく月曜も休みたいなぁ~なんて思い、


熱が下がりませんように・・・・と祈りながら寝た、次の日の朝でした。




ゴ、ゴジラが来た・・・・・


まだ半分夢の中だった私は、一番にこう思いました。


本棚の物が床に落ち始め、その音で頭が目覚め、


ようやく地震とわかりました。



地震がおさまった後、起き上がってめがねをかけようとしたら、


めがねがない!


揺れでどこかへふっ飛んでしまったようです。


地震直後から一人で めがね、めがね・・・ と床をはいつくばっていました。


そこへ、母が飛んできて


「何やってるの!?大丈夫???怪我?」


「いぇ・・・。あの、めがねがね・・・・」


母は弟の部屋へ行ってしまいました。



ようやくめがねを探し当てた後、電気をつけようとしたら


電気がつかない!


あれ。球切れ?


のんきな性格の私は、「ねぇ~電気つかないよ~」といいながら


スイッチをパチパチしていました。


「付くわけないでしょ!」


母に言われ、そうだ。地震がすごいと電気も止まっちゃうんだった


ということを思い出しました。



私も弟の部屋に行くと、彼の部屋は大変なことになっていました。


ベッドの右脇においてあった本棚2個分の本がすべてベッドの中へ、


そして左脇においてあった本棚がベッドの中へ。


何かが当たってスイッチがオンになってしまったおもちゃの救急車が


ピーポーピーポーと、けたたましい音を鳴らしていました。


が幸い、弟は怪我もなく無事でした。



リビングに行くとテレビはテレビ台から落ち、


食器棚はすべて扉がフルオープン。


床はガラスの破片が散乱していて


とてもスリッパなしでは歩けない状態でした。


大事にしていた食器、


母が初めて買ったアンティークの食器はすべて割れ、


モロゾフのプリンのビンやミスドの景品だけが


食器棚に鎮座していました。



ふ~。と気分が落ちかけたとき、


電話から変な音が鳴りました。その音がとても奇妙だったのですが


とりあえず出てみると須磨に住んでいる祖父でした。


「こっちは無事や。そっちは?」


そこでパニくってた母も我に返り、


他の神戸の親戚のところへ電話をかけました。


それ以降電話の回線が大混乱して、


しばらく電話はまったくつながらなくなりました。



みんなの安否が大体わかったところで、


父は神戸にある自分の会社が心配だからちょっと見てくると


車で出かけていきました。


会社までの道のり。


行きは真っ暗ながらも通れたのですが


帰りはその道が消防車のホースだらけで全く通れず、帰ってこれなくなり


父はしばらく会社で寝泊りする事になりました。


(といういことも電話がつながらないし、携帯もないので数日後に知りました。)




だいぶ外も明るくなり電気も復旧したので、


もう一度自分の部屋に行ってみると、ピアノがだいぶ動いており


私が寝ていたベッドの横の壁には大きなヒビ割れができていて、


その隙間から外が見えました。


倒れていたテレビを起こして、電源を付けてみると


白黒で雑音がいっぱい入った映像でした。


よくわからないけど、ヘリからの映像が流れていて


なんだかすごいことになっているらしいということはわかりました。




リビングの窓からは、遠くの木々の向こうから


煙が1本立っているのが見えました。


のんきな私は、電気がまだ復旧していないところがあって


寒いから、すんごい焚き火でもしてるのかなと思いました。


しばらくしてまた外を見ると、煙が2本、3本、4本・・・・・


どんどん増えていきます。


怖くなって、見るのをやめました。



ご近所さんたちは思ったよりも静かで


空を見上げれば、伊丹発の飛行機は普通に飛んでるし


もしかして、うちだけ揺れてたんじゃ・・・・と思ってしまうほどでした。



はて。これからどうするんだろう・・・なんて考えていたとき、


はっ!と思い出しました。そうだ。学校だ。


「お母さん、学校どうすんの?」


「休みでしょ。」


「じゃあ、明日は??」


「それより、あなた熱は?」


「あ・・・忘れてた」


測ってみるとすっかり平熱に戻り、他の症状も全て治っていました。




それからしばらく、父不在、


ガス×、よってお風呂に入れない、


水×、よってトイレ・・・・はご想像におまかせします状態でした。


給水車はわりとすぐ来たので、飲み水には困りませんでした。


水を汲むのは大変でしたが


近所に住む阪神の選手も汲みに来ていて、


会うのが楽しみだったので、がんばって行っていました。


テレビは壊れたので、ラジオでのみ情報収集。


余震も続いていたので、怖くて夜も電気をつけたまま寝むり


疲れと、漠然とした不安でいっぱいでした。




ちょうど電話がつながりはじめた頃でしょうか。


広島の親戚が電話をくれました。


「大変じゃったらしばらく、うち、来んしゃいよ」



その後父とも連絡が取れ、やはり家には帰れなさそうとの事なので


お言葉に甘えて、広島でお世話になることになりました。


本当なら新幹線でパーっと行くのが一番早いのですが


確か土砂崩れか何かで線路がうまってしまい、動いていないので


震災当日も優雅に飛んでいた飛行機を使うことにしました。



空港へ行くにも苦労。


最寄の路線は電車が脱線して使えなかったので


大きな駅まで歩き、そこからタクシーに乗りました。



伊丹空港に着くと、やっぱりうちだけ揺れてたんじゃないか


と思うくらい普通で驚きました。



とりあえずカウンターに行き、「広島へ行きたいのですが」と伝えました。


その当時伊丹ー広島がなかったらしく、はじめはきょとんとされましたが


「新幹線が使えなくて・・・」と状況を話すと


カウンターの職員さんがJRの時刻表を広げ、


他の職員さんにも色々聞いてくれたりして


一番良い行き方を探してくれました。



それは伊丹→福岡を飛行機で行き、


福岡から新幹線で広島へ戻るというもの。



「じゃあそれで行きます」と言ったものの


そこの航空会社の伊丹ー福岡は終日満席とのことで


他のもう一社に電話で空席を聞き、その場で予約をしてくれました。


(この出来事が後に真剣に航空業界を目指すきっかけの一つになりました)



アサインされた席は左の窓側だったので


太陽でキラキラ輝くきれいな海しか見えませんでしたが、


右の窓側だったら、煙で真っ黒な神戸の町が見えたかもしれません。


(これもあえての左側だったとしたら、担当職員さんは素晴らしいです)





それから約1ヶ月後、


我が家周辺は水が復旧したらしいとの情報が入ったので


お世話になった広島を後にしました。


もちろん、新幹線はまだ復旧しておらず


震災後すぐにはなかった広島ー伊丹の臨時便が出ているとのことで


帰りも飛行機を利用しました。



父が家に帰ってきたのとガスが復旧したのは、


私たちが家に戻ってからまだだいぶ後でした。



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震災当時、こんな感じでした。


私の親族はほとんど神戸に住んでいますが


幸い亡くなった方はいませんでした。


我が家は半壊だったので、この程度ですみましたが


神戸市内にはもっともっと大きな被害にあわれた方がたくさんいます。



父が会社を見に行くために車で通った国道。


その道の両サイドはお家が全壊した所が多かったようです。


父が地震直後に通ったときは、信号も街灯も消えていた為


真っ暗で家が倒壊していたかどうかもわからなかったそうです。


が、帰りはその道が消防車のホースだらけで通れなかった・・・・。



後でその国道周辺の状況を新聞で知り


そして家に帰る時その道を通り、


真っ黒な光景を見て愕然としたそうです。



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15年も経つと、


少しずつ当時のことを忘れてしまっているようです。


でもあの日の地震を忘れないことが


亡くなった方への供養にもつながると私は思います。


なので今日、思い出す限りを日記に書いてみました。