小説「夏の思い出」 其の四【完結】 | **きりの・徒然・むつみ**

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 いつものように、シロの吠える声で和樹は目を覚ました。とは言っても、連日の夜更かしのせいで頭はさえず、まだ半分眠ったままの状態で、シロを連れて外へ出た。一方元気いっぱいのシロは、主人に気合いを入れるためか、和樹に向かって一声吠えた。

「おはよう、和樹、シロ」

 恵太が和樹の方に駆け寄り、シロの頭をなでる。シロは尻尾を振ってそれに答え、和樹は欠伸まじりの挨拶でそれに答えた。

「なんだ? 随分眠そうだな」

「うん」

 少女のことは、恵太にも秘密だったので、和樹は曖昧に受け流すと、散歩道を歩きだした。

 朝の空気にふれ、和樹の意識もはっきりしてきたころ、恵太が言った。

「実は今日な、午後に妹を病院に連れていかなきゃいけなくてさ。遊べないんだよ」

「ふうん。どこか悪いの?」

 和樹はさほど興味もなさそうに聞いた。

「ほら、お前と初めて話したとき、しゃべれない人間はいるって言っただろ。あれ、うちの妹のことでさ。節子っていうんだけど、小さいときに事故で、声帯とかいうやつを傷つけちゃって声が出ないんだよ。それの定期検診」

 和樹はよくわからないまま、

「とにかく今日は遊べないんだな」とだけ確認すると、散歩を終えて恵太と別れた。

 その晩、また和樹が小窓から外を眺めていると、いつもの木陰から少女が顔を出した。久々の少女の姿に、和樹はあっと叫ぶと、急ぎながらも物音をたてないように慎重に外に出た。

 外に出た和樹を見つけると、少女はいつものように微笑んで、森の方へと走り出した。和樹はその後をついて走り、森の入り口で少女を止めた。

「久しぶりだよね。何してたの?」

 少女はまた微笑んだ。

「笑ってたんじゃわからないよ」

 しかし、少女は微笑むだけだった。

 そのとき、和樹は今朝の恵太の話を思い出した。



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「もしかして、話せないの?」

 和樹が聞くと、少女はまたもや微笑んだ。

 和樹は、なんだか急に力が抜けて、その場に座り込んだ。そんな和樹の姿を、少女は不思議そうに見下ろしていた。

「だめだよ、もう帰らなきゃ。おうちの人が心配する」

 少女は首をかしげた。

「君はやっぱりおばけなんかじゃなかったんだね。もうわかってるんだよ。節子ちゃんだろ、恵太の妹の。幽霊なんかいるはずないもんな」

 和樹は少女を本気でおばけだと思い込んでいた自分がだんだんおかしくなってきて、必死に声をおさえれ笑ったが、しまいには笑い転げてしまった。

 少女は最初、不思議そうに和樹を見て微笑んだが、やがて微笑むのをやめ、笑い続ける和樹の姿をじっと見つめていた。

「さ、家まで連れていってあげるよ。帰ろう」

 しばらく笑って、それでもまだ笑い足りないかのような口調で和樹はそう言って、少女の方を向いた。

 しかし、そこにもう少女の姿はなかった。

「あれ? 節子ちゃん?」

 あたりを見回しても、もうどこにも少女の気配はなかった。彼女はいつも勝手に消えてしまうけれど、今日はいつもと何かが違っていた。

「節子ちゃん」

 なぜか無性に恐くなって、和樹は何度も名前を呼んだ。しかし、後に残るのは夜の闇と静けさだけで、和樹はしばらくそこに立ちすくんでいた。

 やがて夏休みも残すところ後僅かになり、和樹は東京に帰ることになった。祖父の具合もだいぶ落ち着き、退院することになったので、母も安心したようだった。

 あの日、少女を見失ってから、和樹は心にぽっかり穴があいたような、なんだか不思議な気分で、それからも毎晩、小窓から少女の姿を捜し続けた。恵太に聞いてみてもよかったのだが、少女が夜に家を抜け出しているのが見つかって叱られたりでもしたら可哀想だと思ったし、一度「誰にも言わない」と言った以上、他の誰かに少女のことを言う気にはなれなかった。

出発の朝、一か月間世話をしたシロに別れを告げ、駅へと向かった。シロは、和樹が帰ってしまうことに気付いているのか、いつものように尻尾を振るかわりに、鼻を和樹の体に押し付けて甘えてみせた。

祖父母とは家で別れたので、駅には母と二人で行った。駅につくと、人気のないホームに恵太が先回りしていて、和樹たちを見つけると、にっと笑って大きく手を振った。恵太の後ろには、頭一つぶん小さい、見かけない少女がいた。

和樹が不思議そうに見ると、

「ああ、前に言った妹。今日親が出掛けててさ。ほら、節子。挨拶しろよ」

節子はぺこりと頭を下げた。

 その姿を見て、和樹は愕然とした。その少女は、今まで和樹が節子だと思っていた、あの少女とはまったく違っていた。

「じゃあ、あの子は」

 思わずそう呟いたのと同時に、列車がホームに入ってきた。母が和樹を呼ぶ。

「和樹、元気でな。また来いよな」

 恵太はそう言って和樹の肩をたたき、またにっと笑ってみせた。和樹は呆然としたまま頷くと、母に連れられ列車に乗り込んだ。ドアが閉まってからも、恵太は大きく大きく手を振っていた。



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 そのうちゆっくりと列車が動きだし、恵太の姿がだんだん小さくなり、見えなくなった。それでもまだ、和樹は呆然と外を眺めていた。

 あの少女は、節子ではなかった。ではあの少女は、いったい何だったと言うのだろうか。ぽっかりあいた和樹の心の中に、その言葉がいつまでもぐるぐる回っていた。

 やがて列車は長いトンネルにさしかかった。和樹の視界が、美しい緑から闇へと変わった。はっとした和樹は急に車内を後ろに向かって走り出した。しかし、列車はすでにかなりの距離を進んでいて、和樹が車掌の横から外を覗いたときには、暗いトンネルの向こうに、小さく緑が見えるだけだった。

 その緑を見つめているうちに、和樹は自分が泣いていることに気付いた。一度気付いてしまうと、涙は後から後から溢れだし、もう止めることは出来なかった。

 このトンネルの向こうには、絵日記にも書いてない、和樹しか知らない少女との秘密の時間があった。どこかの土地のどこかの森で、和樹は確かに、あの少女と遊んだのだ。そして、和樹は自らの手で、それをなくしてしまっていた。

 和樹は声をあげて泣いた。驚いた母親がなだめても、他の乗客が嫌な顔をしても、和樹は大声で泣き続けた。なくしてしまった何かはもう決して戻らないだろうけれど、だからこそその何かを、少女との時間を決して忘れないために。

 列車がトンネルを抜けた。もう小さな緑も見えなかった。それでも和樹は溢れる涙を拭いながら見つめ続けていた。トンネルの向こうにあった、この夏の思い出を。





[完]