自分と思っている自分は、実は自分ではなく、ただこの肉体に名前がついているだけ。
空っぽなんだな。
名前は結界みたいなものかな。
エネルギーの境界線のような。
一人一人が、その肉体で思考して、感じて、選択して、あれこれして、固有のエネルギーを放って取り込んで、それが全体に全部に電波して影響しあってる。
そのエネルギーが ほんとのほんとのところ どれだけ威力があるのか。
これって自分と思っている自分のことを どこまでも深く観察して、この繰り返される思考のパターンは何故やってくるんだろ、ホントは何を感じてるんだろ、本音、本心と出会いながら、思い出しながら、それを楽しんで、ハートの反応を見逃さず、選んで動いていくことに夢中にやり続けている人が辿り着く境地。
自分の本音、本心がわからないと、他人のコトバを自分の本音、本心だと思い込み、刷り変えを続けていけばいくほど、自分を失う。
自分の声がどれなんだか、さっぱりわからなくなる。
いつかの出来事で、本音、本心を出してはいけない、という観念を作ってしまったのかもしれない。
この本音、本心に辿り着くには、この自分が創った もう要らないなと思う観念を書き換えて、内側にある言語化できていない、見るのを避けているモヤモヤした感情に気づいていくこと。
自分でしかできない作業。
よくもまあ この地球に降りてきてから こんなにもいろんな観念を創りあげてきたなと感心するほど(笑)
その観念が現実を創っていることに気づくと変えられずにはいられない(笑)
人間は本当にスゴい生命体だなと思うわけです。
神にしかできないと思っていることを私たちはすでにやっている。
でも、そこにまだ気づけてない。
すでに神、はじめから神。
神はエネルギー、人間もエネルギー、全てエネルギー。
エネルギーに上と下もない。
てことは、私たちは神でもあるし、全てでもあるし、何者でもないし、何者にでもなれる。
思考も意識も感情もエネルギー。
自分で自由自在に変えられるってこと。
自分で変えられちゃう!
自分次第。
子どもが無心で夢中になって遊ぶような、それに近い感情、コトバにできないような感覚がブワっとやってくるのは私だけでしょうか…