という記事を今日見かけた。
この4月から小学校で道徳の授業が教科になったそうだ。
へ???
と思った。
だって、道徳の授業なんて前からあるじゃん!と疑問に思い、よく読んでみると、道徳の授業が教科になる、つまり通信簿に評価されることになったという内容の記事だった。まあ簡単に言えば、道徳心のあるこどもは良い子、道徳心の無いこどもは悪い子。つまり、良い子にしてないと成績が悪くなるよ♪ということらしい。そして、この「悪い子」に対して悪の烙印を押すことが出来ず、教育現場では先生達も思考停止になっている(笑)という記事。
記事の中に、「星野くんの二塁打」という教材の話が出てくる。
それはこういうエピソードらしい。
「バッターボックスに立った星野君に、監督が出したのはバントのサイン。しかし、打てそうな予感がして反射的にバットを振り、打球は伸びて二塁打となる。この一打がチームを勝利に導き、選手権大会出場を決めた。だが翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語り始める。チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしいという監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野君の行動を咎める。「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」などと語り、星野君の大会への出場禁止を告げるシーンが展開する。個人プレーとチームプレーのどちらを優先すべきか。悩ましいテーマだが、教材は迷うことなく前者を断罪している。」
ホント、もうね、これだから体育会系のノリは大っ嫌いだ。
しかも!!!
この記事では、「道徳で定番となっている「星野君の二塁打」という小学6年の教材も、教員たちの悩みの種だ。」と書いてある!
定番!!!!????
このエピソード、定番なんだ!?(笑)
最近の中高生はこの話をみんな聞いて育ったのかな?
最近の学校教育がここまで酷いなんて知らなかった。
とてもショックだ。
先日、知り合いの人にふと、「江藤さんて説明がとても丁寧なんですね?」と言われた。
「だって、スリッパを出すのに普通でしたら、ただハイって渡すだけですけど、江藤さんの場合、床が汚れているんでどうぞスリッパを履いてください、と言って出すじゃないですか(笑)」と驚かれた。
え、普通じゃない?と思ったけれど、なぜいちいち理由を説明するのか、今まで考えたことも無かった、、、なぜなのか自問自答してみた。
たぶん、幼い頃から理不尽なことが大っ嫌いで、(僕は他人には理不尽なことをたまにやるらしいけれどw)、命令口調で理由も無しにアレやれコレやれと言われても納得できないことはやらない質だった。なぜそれをしなければならないのか説明を聞かないと納得できない子供だった。今も変わらないかもだけど(笑)
だから多分、他人に何かを伝える際にも、理由を説明してしまうのかな?と自分の中では結論付けた。
自分が望むことを相手も望んでいるかな?と無意識で思っているのかもしれない。
煩わしいと思う人もいるだろうけれど、理屈や道理を教えたくれたほうがスムーズにいく。。。
ような気がするのは自分だけ?かもしれない。。。汗)
とにかく昔からそんな質だから、もし僕がこの「星野君の二塁打」なんていう糞みたいなくそエピソードを小学校で受けさせられていたなら、それこそ永遠に脳裏に刻まれるクソ授業となっていただろう。それほどにこの「定番教材」はタチが悪い。
ではこの教材の何がそこまで悪いのか?
それはこの記事に書かれているように、軍国主義のような思考プロセスを子供に植え付けるから、という部分ももちろんあるだろうけど、それ以上にこの問題は深刻で根深い。
子供の思考を停止させ、とにかく命令に従うことを「善」、従わなかったら「悪」とする。それが道徳であり、それを今度から評価しますよ、っていうお話だ。
昔読んだ夏目漱石の言葉を集めた本に、こんな事が書いてあった。
「道徳は習慣だ。強者の都合よきものが道徳の形にあらわれる。考は親の権力の強きところ、忠は君の権力の強きところ、貞は男子の権力の強きところにあらわれる」
つまりはそういうことだ。
今の時代の「強者」に都合のよいものをこの道徳の授業で子供たちにみっちりと植え付けて、そしてそれを習慣化させる。いついかなる時でもおとなしく命令に従う星野君を量産する。星野君よろしく、子供たちは大人になっても忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲しても忠ならず、となり、結局進退窮まって思考停止の末、バント。。。今日メッチャ調子いいのに、絶対打てそうな気がするのに、バント。。。そうなっちゃう。
夏目漱石のその本が今手元に無いので、うろ覚えだけれども、その本に書いてあったのは、漱石はとにかく江戸から明治にかけて、日本の文化や価値観が欧米に変えられていってしまうことに対して、もの凄い危機感と嫌悪感を持っていたらしい。
今では普通に思える「権利」とか「平和」とか、こういう日本語も明治になってから入ってきた外来の日本語、というか日本には無かった異文化の概念の訳語だ。親孝行なんていうのもその一つなのだそうだ。
当時の日本の性に対する考え方というのはとてもおおらかだったそうで、今では考えられない事だけれども、はっきり言って誰が自分の親なのかほとんどの子供はわからなかったらしい。言い方を変えれば、お母さんが色んなひととエッチするので、遺伝的な父親が不明だったそうだ。
こう書いた時点で、すでに嘘っぽい(笑)と現代人の僕らは感じてしまうかもしれないけれど、ホントにホントに本当の話だ!
話がそれてしまうので、この性の話はまた別の機会に譲るとして、とにかく、明治になって親孝行をしなさい!親孝行をする子が良い子、しない子は悪い子、という道徳観念を明治政府が植え付け始めたらしい。それで、どうなってしまったかというと、父親が誰かわからないのは「悪い」事なのだ、という価値観になってしまい、それまでの日本の性に対する考え方も、この植え付けられた星野君的罪悪感から、欧米的な考え方に変えられていったそうだ。夫婦以外の人との性交渉は「悪」となってしまった。
この「道徳」という観念を決してナメてはいけない。
日本人の価値観の根幹、何が「善」で何が「悪」なのかを子供のうちから教え込むための洗脳プログラムが、この道徳という授業が作られたそもそもの目的なのだから。
では、夏目漱石の言葉を借りるとすれば、ここで言う現代の「強者」とは誰なのか?
日本をまた軍国主義に戻したい勢力の人たちなのか?
アベシンゾーとその取り巻きなのか?
日本会議とかいう怪しいグループのメンバーなのか?
それとも、誰なのか?
そう考えるひとも、今の世の中は少なくないと思う。
その答えは、ジョン・テイラー・ガットという人が書いた「バカをつくる学校」という本にヒントがあるだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『バカをつくる学校』
成甲書房
ジョン・テイラー・ガット著
高尾 菜つこ訳
ニューヨーク州の一人の教師によって書かれた、学校教育がバカを量産するために存在する事を告発した本。
この本の中で、ロックフェラーからの書簡が紹介され、『我々の夢は、人々が我々の作る型におとなしくゆだねることである。我々は子供達を哲学者や、教育者、詩人や文学者、芸術家卵や弁護士や医師、牧師や政治家を求めるわけではない。そうした者はもう十分にいるから』と述べている。
要するに上の命令に逆らわず、単純労働をしてくれる労働者を大量生産するための教育、そのために学校というのは存在する、とはっきりと語っている。
学校の問題点として、子供の能力が伸びないような教育法、子供が知的に興味を持たない方針を挙げているので注目。
①一貫性のなさ
自然界にはすべて意味があって存在する。だが、1つの授業にしろ、1日の時間割にしろ順序がめちゃくちゃで意味をなさない。
②クラス分け
年長者が年少者の面倒をみるのは自然な事。社会に55歳の社員だけを同じ部屋で働かせることはありえない。
③無関心
興味を持たないように教える。どんなに興味がわいてもチャイムがなったらやめなくてはならない。
④感情的な依存
子供達は教師に褒められたい、怒られたくないと思うように依存させる。教室の中では教師が支配者であるということを印象づける。
⑤知的な依存
何事も自分で判断せず、教師の指示を待つように教えられる。彼らが何を学ぶべきか、彼らの人生に何が必要かなど重要な判断はすべて専門家が行う。優等生とは教師が示した考えにほとんど抵抗せず、劣等性とは教師の示した考えに抵抗し、自分でそれを決めようとする生徒のこと。
⑥条件つきの自尊心
自分の価値は専門家の意見で左右されると子供達に教える。通知表の目的は、子供達に自分や親ではなく、資格を持った専門家の評価を信じるように教えること。自分にどれだけ価値があるのか、それは他人が決めること。
⑦監視
子供達に、いつも見張られていて、教師の管理から誰も逃れることはできない、と教える。宿題という授業の延長によって、生徒の家庭生活にも監視の目を入り込ませる。子供達にプライバシーは存在しないこと、他人は誰も信用できないことを教える。
そんな教育に順応した子どもは「大人の世界に無関心」「集中力が長続きしない」「未来に対する認識に乏しい」「歴史に関心がない」「他人に対して残酷になる」「親しさや正直さを拒絶する」「物質主義的になる」「依存的、受け身、新しい挑戦に臆病」といった人間になる。
さらに、生きるのに必要といわれている『読み書きソロバンは100時間もあれば学べる』というデーターがあるそうだ。
劣等感を植え付けるこれまでの学校はいらない。江戸時代の寺子屋の方が優れている。
アメリカでは、成績も良くなく、高等教育を受けるお金のない子供はドラッグ中毒になるか、うつ病になるか軍隊に入る、しかない。
で、教育を受けたとしても従順な大量生産の労働者になるしかない。
格差は無限に広がるわけである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ロックフェラーだ。
またこいつらか、と思うかもしれない。
ロスチャイルド、ロックフェラー、ニューワールドオーダー。。。
もう聞き飽きたかもしれない。
でも、今日本の小学校で起こっているこの問題は、明治維新の時にすでに彼らによって策定されていたプランなのであり、それは誰が日本の首相になっていようと変わらなかったであろうと思う。
しかし、ここで悩む必要はないかもしれない。
真の黒幕が誰で、何のために星野君を増やそうとしているのかその理由も明らかなわけだから。
黒幕と目的が分かっているのだから、対策をたてるのも難しいことではないと思える。
少なくとも軍国主義がー!とか、アベがー!とか、子供の自治がー!とか、そういった見当違いの方向に解決の道を探さなくてすむのだから。
すべては現代の人間社会、いまの人類の在り方、それをいかに個人レベルで変えていけるか、ということなんだと思う。
もっとわかりやすく言えば、お金が全ての考え方にとらわれずに、本質的に何が一番大切なのか、を大事にしていける生活にする、ということなのかな。
わかりやすくないか(笑)
とにかく、自分の心に誠実に生きることを覚えること。
自分の気持ち(フィーリング、感情、思考)ではなく、自分の心に向き合うこと。
ここから始めればよいと思う。
子供たちにも、どうすれば自分の心に誠実に生きられるかを教えてあげられたら良いと思う。
すくなくとも、記事には「道徳の教科化に「反対」「どちらかといえば反対」と回答したのは小学校約79%、中学校約76%に上った。」とあるので、ほとんどの先生は子供の善悪に評価なんてしたくない、と思っているということなのだろう。不幸中の幸いだ。
先生たち、頑張れ!!!