高校の物理で「うなり」という現象を学習します。
音というのは空気の振動、つまり波です。
波が一秒間に何回振動するかを表す指標を振動数と言い、
振動数の小さい音は音が低く、振動数の大きい音は音が高くなります。
この振動数が違う複数の音が混在した時に聞こえてくるのが、先程ご紹介したうなりです。
振動数の異なる二つの音叉を同時に振動させると、一定周期で「ワァーン、ワァーン」と聞こえてくる音、
この音をうなりと言います。
いくつものズレた音が存在することで、どの音源も発していない音が聞こえてくる。
とても示唆に富む現象だと私は思います。
私は教育には正解はない、と考えています。
しかし、明らかな不正解はあります。
例えば、子どもに暴力を振うとか、存在を無視するとか、偏った思想で洗脳するとか。
このような明らかに不正解がある一方で、これが正解、と言い切れる教育があるでしょうか?
私が調べたところによると、オランダ、フィンランド、ドイツ、アメリカ、イギリス、韓国、中国、台湾、様々な国や地域で様々な形の教育が為されています。
この事実は、教育に明らかな正解などないことの証左と言えるでしょう。
私は何が言いたいかというと、教育の形は一通りである必要などない、ということ、
そして、むしろその方法はズレていなければならない、という事です。
私達は一人一人様々な主観を抱き日々生きていますが、その主観は決して客観的でなどありません。
私達の主観は今まで生きてきた中で身に着けた様々な偏りに満ちています。
だからもちろん私の主観も偏っています。
そうであるならば、たった一人の人間が生きるべき道などというものを子どもに提示できるはずがありません。
また、たった一人の人間の主義主張の中でだけ生きてきた子どもは、その人間と同じ偏りの世界に閉じ込められてしまうことになります。
その結果は同じ考えの人間が複製されるだけで、そこには何の発展性もありません。
それは、洗脳とまでは言いませんが、決して教育的とは言えないでしょう。
一人の人間の単一の価値観の中では教育は成立し得ない。
教育的環境に必要なものはズレなのです。
例えば、お父さんの言うこととお母さんの言うことがズレている、
先生の言うことと両親の言うことがズレている、
近所のおじさんの言うこととおばさんの言うことがズレている。
こんな風に周りの大人たちのいう事が少しずつズレている、このズレが必要なのです。
人間というのは認知的整合化を図る生き物ですから、これらの不整合に整合性を見出すために子どもたちは葛藤することになります。
そして葛藤する中でやがてあるメッセージを聞くに至ります。
それは例えば「世の中は矛盾に満ちていて、その中に理を見出すために君たちは大人にならなければならないのだ」といった類の、
その子を取り巻く大人が誰一人として発していないメッセージ、
一人一人の大人の言う事が少しずつズレていて不整合である時に、初めて聞こえてくる「うなり」的メッセージです。
こんな風に様々な大人が様々なことを言い、そのメッセージが混在しているような場が教育的な場だと私は考えます。
しかし今は様々な大人の声を聴くことが難しい社会になっています。
それは地域共同体の崩壊とも密接に関わっています。
例えば私が子どもの頃は、地域の行事があり、その中で子どもたちに役割が与えられ、様々な大人の声に触れる機会がありました。
その中であの大人はヤバいとか、あの大人は話が分かるとか、経験を重ねる中で人を見る目や価値観を形成することが出来ました。
今はそのような機会がどんどん少なくなって、子どもたちが触れる大人の声と言えば親と学校の先生だけ、という事も珍しくありません。
それではやはり声が足りないのだと私は考えます。
私達一人一人の声はどうしようもなく偏っているかも知れません。
でもその偏った声が集まることで教育的な場が形成されるなら、私達は大人はもっと子どもたちと関わっていく必要があるのだと思います。
子どもたちを葛藤させ、成熟させるためには私達一人一人のズレた声が必要なのです。
私は仕事柄子どもと関わる機会が多い立場にいます。
その立場を存分に利用して、親御さんとも、学校の先生とも違う声を発していこうと思っています。
可能な範囲で構いません、ご自身の身の回りにいる子どもたちとどんどん関わって、
親御さんとも学校の先生とも違う声を子どもたちに届けてあげてください。
その混ざり合った声が子どもたちを葛藤させ成熟させてくれるはずです。