前回の記事では、人が旅立つためには、何かあったら戻れる場所が必要で、
そういう場所を持てないと人は動けなくなってしまう、ということを綴ました。
いつでも安心して戻れる場所。
それはその人の所有物や能力故ではなく、その人の存在そのものが祝福される場所です。
しかし、今私たちは子どもたちにそのような場を十分に提供できているかと言えば、大いに疑問です。
なぜ私たち大人は子どもに対してその存在を祝福する場を提供出来なくなっているのでしょうか?
今回はそのことについて考えてみたいと思います。
人間というのは社会的存在です。
日々の生活の中の小さな選択も、自己決定しているように見えて、
実は社会の価値観にその選択を予め規定されている、ということが多いです。
例えば、一見社会のルールに抗って生きているように見えるロックンロールスターも、
長髪に革パンを履きトゲトゲのシルバーアクセサリーを身に付けるなど、
社会から認められたある種のコードに従って自らの反社会性を表現しています。
つまり表面的には反社会的でも、本質的には社会的存在なのです。
このように、人間の振る舞いや考え方は、強く社会を覆う価値観に規定されています。
しかし、人間は「社会」という世界に生きる存在であると同時に、
それを包含するもう一つ大きな世界の中でも生きている存在です。
長年子どもたちの不登校問題に携わっている、臨床心理学者の高垣忠一郎先生は、
「社会内存在」と「宇宙内存在」という言葉でそのことを説明されています。
人間が「社会内存在」であると同時に「宇宙内存在」であるとはどういうことでしょうか?
私の経験に基づいてご説明します。
今はもうなかなかそういう時間が取れなくなりましたが、
私は会社勤めをしていた頃、夜によく気晴らしに散歩に出掛けておりました。
家の近所を一時間くらいかけて黙々と歩き回るのですが、
その道すがらしばし足を止めて、星空を眺めるのが私は好きでした。
ぼーっと一人で星空を眺めていると、星が刻々と動いていくのが分かったり、時たま流れ星が流れたり。
そんな時間を過ごしている時に考えたのは、人間社会のルールとは別のもっと大きなルールがこの世界にはある、ということです。
それは例えば、惑星の公転運動を支配するケプラーの法則であり、
質量のある物体同士は互いに引き合う、という万有引力の法則であり、
光は真空中を秒速30万キロで進む、という光速度の法則です。
これらは人間が決めたルールではなく、人間社会の外側にある、しかし確実に人間に影響を与えているルールです。
このように人間社会のルールと、その外側にあるもう一つのルールの中で生きているのが人間という生き物です。
これが、人間は「社会内存在」であると同時に「宇宙内存在」である、ということの意味です。
しかし今、私たちはそのことにとても気付きにくくなっています。
その理由は、私たちが人間社会の外側を感じることが難しくなっているからです。
長くなりましたので、次回に続きます。