いきなりですが、音楽や匂いには、不思議な力があると思います。
と言うのも、昔聴いた音楽や香ったことのある匂いに触れることで、
その時の記憶が鮮やかに蘇ってくる、という事が起きるからです。
最近も仕事の車の中で、懐かしい音楽を聴いていた時に、フッとある記憶が蘇ってきました。
私が今この仕事をしている理由に関わる記憶です。
もう10年ほど前の話ですが、一緒に学習をしていたお子さんが、色々あって学校に行けなくなった事がありました。
詳しいことは書けませんので割愛しますが、その子が体調を崩して間もない頃に、
ボソッと自分のことを「学校にも行けないようなダメ人間」と言った事がありました。
その言葉を聞いた時に、
まだ15、6歳の子どもにこんな事を言わせてしまう世の中って一体何なんだろう、
でも、自分もこの子を追い詰めている世の中の一員なのだよな、などと言う思いが湧き上がって、
申し訳なさと悲しさから、子どもに「ごめんな」と言いながら、私は思わず涙を流してしまいました。
子どもを元気づけるためにお邪魔しているのに、
「先生大丈夫ですか?」と逆に子どもに気遣ってもらったりして、
一体何をしに行ってるのか分からなくなったことがありました。
その子はその後元気になって大学に進学して行きました。
それから数年経って、その時の事を思い出した事がありました。
何であの時あんなに辛い感情が湧き上がってきたのだろうかと、考えているうちにある事に気が付きました。
それは「ダメ人間」という言葉はかつて自分が自分に投げつけていた言葉だった、ということです。
以前にも書いたことですが、私は高校に居場所を見つけることが出来ませんでした。
全く高校に馴染めない3年間でした。
学校の成績もひどいし、周りのみんなは楽しそうに過ごしているのに、何で自分は同じように出来ないのだろうか。
私はそんな自分に対して全く同じ言い回しではないものの、「ダメ人間」「ダメ人間」と無意識に言い続けていました。
だから「ダメ人間」と自分自身を卑下する子どもの姿にかつての自分の姿が重なって、辛くなってしまったのだ、と振り返ってみて気付きました。
そうやって考えるとなぜ自分が今この仕事をしているのか、その理由が分かりました。
それは、学校に馴染めない、皆と同じ様に振る舞えない、そんな理由で自分自身を責めて、動けなくなっている子どもたちの姿が、かつての自分と二重写しになって見えるからです。
「学校の勉強がすべてじゃない」
「みんなと同じである必要なんかない」
「頑張ってるんだよな」
私がよく子どもにかける言葉ですが、これらの言葉ひとつひとつは、
他ならぬ私自身が、苦しんでいた頃に誰かにかけてもらいたかった言葉でした。
これらの言葉を子どもたちにかけていると、何故か自分自身が許された気持ちになるのは、そういう理由からなのでしょう。
私は未だにあの頃の自分に対して少なからずわだかまりを抱えていて、
子どもたちと関わることで、私自身がそのわだかまりから解放されるきっかけをもらっているのかも知れません。
子どもたちを助けたい、などと立派なことを言って始めた仕事ですが、一番助けられているのは他ならぬ私なのだと思います。
そうであるならば、これからも自分自身のために、動けなくなっている子たちのために、
あの時自分がかけて欲しかった言葉を届け続けていかねば。
そんな思いを新たにしました。
今日は昔懐かしい音楽を聴きながら思い出したことを綴ってみました。