優性思想について私が考えること ~不登校の子どもたちが訴えるもの~ | 不登校に悩む親御さんへ 家庭教師の大丈夫!@新潟のブログです。

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最近、昔好きだった曲を移動中に聴いています。

 

音楽を聴くとその時見ていた風景、その時感じていたこと、その時一緒にいた人たちの表情など、

いろんなものが一瞬のうちに蘇ってきます。

 

やっぱり音楽っていいなぁと思います。

 

懐かしい曲の中に、こんな歌詞があります。

 

“誰の存在だって世界では取るに足らないけど、誰かの世界はそれがあって作られる”

 

その人の存在は世界にとっては識別不能な七十七億分の一の存在かもしれないけれど、

 

その人を大切に想う誰かにとっては世界にたった一人の掛け替えの無い存在。

 

私はこの視点をいつも忘れずにいたいと思います。

 

 

数日前のニュースで難病に苦しむ女性から依頼を受けた医師が、薬物を投与してその女性を殺害するという事件が報じられました。

 

その数日後には、若者に人気のロックバンドのメンバーが優性思想を肯定するようなコメントを発して物議をかもしました。

 

遡れば、2016年、神奈川県の障がい者施設津久井やまゆり園で、入所者の方たちが元職員の男に殺害されるという事件もありました。

 

犯人の男は、障がいを持つ人は社会を不幸にする、という旨の発言をしています。

 

これらの出来事に通底のは、“有用な人間でなければ生きていてはいけない”という価値観です。

 

私はこのような思想には強い違和感を抱きます。

 

 

「有用性」とは一体何でしょうか?

 

誰かの役に立つこと、優れていることを以って有用性と言っているのでしょうが、その有用性を測る物差しは決して絶対的なものではありません。

 

例えば、「美しさ」という価値について考えてみてください。

 

百人一首をやったことがある方ならばすぐに分かると思いますが、絵札に描かれている平安時代のお姫様の容姿は、現代人が思い描くいわゆる「美人」のそれとは大きく異なります。

 

平安時代は切れ長の一重瞼で長い黒髪のふくよかな女性が美しいとされていました。

 

また東南アジアに住むカヤン族では、女性の首が長いことが美しさの象徴であると考えられています。

 

つまり「美しさ」という価値観は時代や国によって様々に移ろうということです。

 

「有用性」などというものは決して絶対不変ではないのです。

 

 

私たちが今仮に「有用なるもの」を一つや二つ持っていたとして、私たちはそれをずっと持ち続けることが出来るでしょうか?

 

それは不可能なことです。

 

何故なら私たちの誰一人として例外なく、老いることからは逃れられないからです。

 

私たちはみんな、やがて足腰が弱り、耳が遠くなり、物忘れが激しくなり、複雑な判断を下すことが難しくなる時を迎えます。

 

その時に、今まで自らの有用性にのみ依拠して生きてきた人たちは、どうやって自分自身を支えて生きていくつもりなのでしょうか?

 

優生思想に同意署名した人は、その時に自分で自分の命を終わらせなければなりません。

 

論理的にはそうなるはずです。

 

彼らはそのような人生の最期を迎えて本当に良いのでしょうか?

 

私なら嫌です。

 

 

今度は時間軸を遡ってみてください。

 

私たちはみんな誰一人例外なく、無力な赤ん坊として生まれてきました。

 

赤ん坊はもちろん「有用性」などというものを持ち合わせているはずがありません。

 

誰かのために何かが出来ないどころか、誰かから支えてもらわなければ生きていけない存在としてみんなこの世に生まれてきます。

 

「有用性」という皮相的な価値観に基づいて考えれば、すべての赤ん坊は生きていてはいけない存在ということになってしまいますが、

 

自分たちの次を担う世代にそのような破滅的なメッセージを送るような共同体は、その性格ゆえに早晩この世から滅び去ってしまうことでしょう。

 

 

ここまで書くと如何に「有用性」という狭量な尺度が、そこに住む人間を生きづらくしてしまうかが明確になると思います。

 

そんなもので人を選別する発想がいかに愚かしいかも分かって頂けると思います。

 

でも実際に、現在進行形でこのようなモノサシを当てられて苦しんでいる人たちがいます。

 

私が関わる不登校の子どもたちの中には、

 

今まで一生懸命大人が掲げる価値観に適応しようと努力してきたけれど、限界が訪れ疲れ果て動けなくなってしまった子が一定数います。

 

彼らはこの「有用性」という、ある国ある時代でのみ有効な狭隘で皮相な価値観に苦しめられている被害者であると同時に、

 

その身を呈して私たち大人にそのような単一の価値観で人を測ることの愚かしさに気づくきっかけを与えてくれる存在でもあります。

 

少子化で子どもの数は減っているにも関わらず、不登校になる子どもの数は増え続けている、という事実があります。

 

「有用性」という私たち大人が課した重しによって苦しんでいる子どもたちが増えています。

 

そしてその重しは私たち大人自身を苦しめる重しでもあります。

 

学校の成績もそうですが、それ一つで人が持ちうるすべての魅力、能力、才能を測り取ることが出来る万能のモノサシなどこの世にはありません。

 

何が出来ようが、何が出来なかろうが、その人は、誰かにとってたった一人の掛け替えの無い誰かです。

 

その価値を他の誰かが、勝手に決めつけていいはずがありません。

 

優性思想などという浅薄な価値観がこれ以上広がらないことを切に望みます。

 

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