「かくあるべし」と人を苦しめるのは、誰かの都合によって押し付けられた価値観であること。
現代の日本を覆う価値観は「金になればそれでいい」という資本主義、拝金主義であること。
価値観なんて絶対不変のものではなく、国が変われば、時代が変われば簡単にひっくり返る程度のものであること。
ここ数日そのような内容を綴ってきました。
人を苦しめるのも価値観ならば、人を支えるのも価値観です。
人を苦しめる価値観、人を支える価値観。
両者を分けるものとは何でしょうか?
人を苦しめる価値観、人を支える価値観。
両者を分けるものは、その価値観の来歴です。
人を苦しめる価値観。
それは誰かの都合によって押し付けられたもの。
人を支える価値観。
それは自分自身で形作ってきたもの。
その違いです。
いい学校を出て、いい会社に入って、退職まで一生そこで面倒を見てもらうというキャリアパスが過去の遺物となった今、
「勉強したって意味ないよ」などという声も世間からは聞こえてきます。
私はそういう時代であればこそ、学ぶ必要があると感じています。
誰かの都合で押し付けられた価値観が破綻しかかっている今、その価値観から脱皮して自分自身で価値観を作り出していかねばなりません。
そのためにも人は学ぶ必要があるのです。
例えば歴史を学べば、現代日本の価値観を相対視する視点が得られます。
現代ではこのような価値観が広く信じられているけれど、それは決して絶対的なものではなく、この時代特有のものでしかないのだと気づくことができます。
例えば国語で小説を読めば、物語の登場人物に自分を投影して、さまざまな価値観に触れることができます。
そういうことを通じて、親の言うこと、先生の言うことは、実はその人特有の思い込みも多いのだ、と気づくことができるようになります。
例えば英語を学ぶことで、外国の文化・思考に触れ、自分が絶対のものと信じていた価値観が、この国特有のものでしかないと気づくことができます。
このように何かを学ぶという経験を通じて、人は誰かの価値観から自由になることができるのです。
そして学びのプロセスを通じて、いろいろな人が言ういろいろな事柄の中で揺れ動き葛藤し、自分なりの価値観を見出していくのです。
学び葛藤する中で自分の力で手にした価値観が、誰かの都合のお仕着せの価値観から人を自由にしてくれる。
そして苦しい時に自分を支えてくれるのも、そのようなプロセスを通じて自分でつかみ取った価値観なのだと私は考えます。
人を苦しめるのも価値観ならば、人を自由にしてくれるのも、支えてくれるのも価値観です。
そういう価値観を手にするために、私はこれからも学び続けていきたいし、そういう大人が増えていってくれたらいいとも思います。
学ぶというのは葛藤し続けること、それは古い自分を壊し、新しい自分を創り続けることです。
生物学の言葉に「動的平衡」というものがあります。
生物を構成する組織は見た目には同じ形をとどめていますが、その中で実は古い細胞が壊れ、新しい細胞が生まれるという動的プロセスが繰り返されています。
古いものを壊し、新しいものを生み続ける破壊と創造の連続が、その生物をその生物たらしめているということです。
それは生物学の細胞レベルに限った話ではなく、人の成長に関しても同じなのではないでしょうか。
誰かの価値観に縛られた古い自分を壊し、学びを通じて新しい自分を創造し続けていくからこそ、
力を持つ者が押し付けてくる価値観に変えられること無く、その人はその人であり続けられる。
私はそう考えます。
学び、学びと何度も書いてきましたが、玉石混交の情報が溢れかえる時代。
情報の海で溺れぬために気を付けなければいけないこともあります。
次回からはそんな内容を綴りたいと思います。