文豪夏目漱石は、イギリスに留学した際、神経衰弱のため自室に引きこもるようになりましたが、そのプロセスを経て自分の作品に底流するスタイルを確立していったと言われています。
20世紀中の発明は無理と言われていた青色発光ダイオードを開発した中村修二さんは、会社の会議に出ることを拒み、自分の研究に没入し、その発明でノーベル賞を受賞しました。
仏教の開祖、ゴウタマ・シッダールタは六年間洞窟に引きこもり難行苦行に耐えたのち、菩提樹の下で悟りを開いたと言われています。
ひきこもることは、世間一般では悪いこととされる傾向がありますが、私は必ずしもそうであるとは思いません。
周りにいる大人が適切なサポートをしてあげれば、という条件はつけますが、特に感性豊かな十代のうちにそのような時間を持つことで、得られるものはたくさんあると考えます。
=複眼で見よ=
昭和を代表する思想家の吉本孝明さんは、著書「ひきこもれ」の中で、ひきこもることでその人の中に「第二の言語」が育つと述べています。
「第二の言語」とは他者とコミュニケーションをとるための言語ではなく、自分が自分の内面深くとコミュニケーションをとるための言語。
〝自分が発して自分自身に価値をもたらすような言葉〟、〝内臓に響いてくるような言葉〟それが第二の言語であると、著者は述べています。
それは世の中と対峙するときに、世間一般の視点とは別の二つ目の視点、複眼を得ることと同義なのだと思います。
例えば、三角錐という立体があります。
底面が円で、工事現場におかれているコーンのような形をした立体です。
三角錐は真上から見れば、円に見えます。
そして真横から、見れば三角形に見えます。
どちらの視点も三角錐を円、三角形と誤認してしまっています。
三角錐を三角錐として認識するためには、真上からの視点と真横からの視点を同時に持ち合わせなければなりません。
これと同じように、ある事柄をたった一つの視点から眺めていたのでは、真実とかけ離れた認知をしてしまうのではないでしょうか?
ある事柄を真実にできるだけ近い形で認知するためには、複数の視点からその対象を観察する必要があるのです。
自分自身と深く対話するひきこもる時間を持つことによって、第二の言語、二つ目の視点が得られ、物事を立体的に、より真実に近い形で認知できるようになる。
私はそう考えます。
次回に続きます。